事務局より
大学卒業後、愛知県・大阪府の小学校に赴任され、日教組の活動にかかわり始めたきっかけ、組合幹部としての活動、日教組の実態などについて、教育行政と労働運動の変遷の紹介とともにお話しくださいました。

岩田 勝さん(7期)

「私の日教組体験」



0.赴任
・ 卒業後、愛知県の中学校の英語で採用された。最初の着任予定地は山奥の不便な所であったが、家庭の事情(祖父母との同居)で辺鄙な所に勤めるわけにはいかなかった。
・ 県教育委員会の名簿をみると、外大出身の高校の先生がおられ、その方に赴任先の変更を相談すると、早速に動いていただき小学校なら空きがあるとのこと。そこで英語へのこだわりはあっさり捨て、中学に籍を置きながら小学校で教える、「中籍小勤」という形で教員生活がスタートした。大学のつながりの強さを実感した。
・ その小学校は田舎の牧歌的な所で前には川が流れ、桜が残っていた。
・ 私は1945年生まれ。同期の人達の少ない年代であり、いろいろな役が回ってきた。それが日教組の世界に入っていくきっかけのひとつでもあった。
・ 愛知県には3年おり、その後大阪に戻り、S市の小学校に入る。小学校の免状は後で取った。

1. 日教組って何?
日教組は非国民のようにきらわれている団体である(資料参照)。しかし、その実態はそれほど知られていない。正しく理解されていないようである。

(↑資料を拡大して読むには、上図をクリック)

(1) 日教組の発足
・ 日教組発足は1947年。当時の教員の賃金は安く、生活は厳しかった。子どもの教育環境も悪かった。校長も教頭も教員が一致団結する必要があった。最初はイデオロギーの強いところから出発したわけではなかった。教員の生活と子どもの教育条件を良くしていくことが目的であった。
・ 日教組の信条「教え子を戦場におくるな。」は今も変らない。平和・護憲・民主主義を掲げている。この信条は現在では、「教え子を戦場におくらない。」と自分たちの決意として口にする人が多くなっている。
・ 日教組はある種の労働組合である。教師たるもの労働組合を結成するのは、けしからんという人も大勢いる。教師は聖職者とよくいわれるが、教師は神や仏につかえる聖職者ではなく、子どもたちを相手に仕事をしている。教育の専門職と考えている。
・ 日教組は選挙に強かった。社会党の応援団であった。昔は、習字の時間に候補者の名前を生徒に書かす、歩いている子どもに候補者の名前を連呼させる、という強者教師がいたこともある。
・ 参院議員選挙全国区で西で二人、東で二人くらいを当選させるほどの力があった。今は東西それぞれ一人ずつ程度の力しかない。県レベルの日教組委員長が衆院議員選挙に当選するということもあった。このような経緯から日教組はけしからんと思われているところはあった。

青年教師の詩(高知県)

逝いて還らぬ教え子よ
私の手は血まみれだ!
君を縊ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
「お互いにだまされていた」
の言訳がなんでできよう
    ―中略―
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」


1952年大会採択のスローガン




(2) 戦後教育と日教組
1947年 教育基本法 6・3制発足 日教組結成 「結べる同志50万」
1951年 「教え子を戦場に送るな」スローガン
1954年 偏向教育批判
1956年 教育委員の公選制廃止
1958年 道徳教育の実施
1961年 全国一斉学力テスト
1966年 午後半日ストライキ(人事院勧告完全実施要求)
1970年 家永教科書裁判(侵略戦争の記述をめぐって)
1974年 全1日ストライキ(春闘参加ゼネスト) 聖職論の台頭(共産党から)
1975年 主任教員制度(S市教組書記長時代)
1982年 教科書問題(「侵略」を「進出」と変えることにより近隣諸国の猛反発をうける)
1989年 日教組分裂 共産党系が日教組から離脱 統一ナショナルセンター「連合」結成 共産党は独自のナショナルセンターを立上げ
1990年 「参加・提言・改革」路線決定 中央教育審議会参加
2002年 学校5日制完全実施 ゆとり教育
2006年 教育基本法改定法案可決
・ 日教組は偏向教育をすすめていると批判されたこともある。1954年に山口県で夏休みの教材の内容が偏向しているとたたかれたことがある。
・ 教育委員会のメンバーは自治体首長が決める。委員5人のうち、4人が市民の代表、残り1人は教育専門職(教育長)。教育委員長は市民代表のなかから選ばれる。かつては教育委員は公選制であったが、1956年に廃止。
・ 1961年に全国一斉学力テストがはじまる。日教組では、これを「教育の国家統制が強まった」といっていた。
・ 1966年に午後半日ストライキをやった。教員がストをすることについて、世間の風当たりは強かった。人事院勧告があるので公務員にはストライキ権がないという原則があったが、その勧告が守られていないのでやむにやまれず、賃上げストをうった。
・ 1974年には、春闘の一翼としてゼネストに参加した。
・ S市教組の書記長をやっていた、1975年に主任教員制度が導入された。学校は校長と教頭だけが管理職の横社会。教育を管理するためには、中間管理職を設けざるをえない。しかし、横社会に縦社会を入れるのには、強い反発があった。主任教員制度の実施には、自治体毎で学校管理規則を変える必要があった。そのようなもとで、S市教組は市教育委員会と激烈な対決を行った。学校の秩序を破壊せずに、市民から批判されないように、交渉・工夫をした。
・ 1989年に、それまで大きくは社会党系と共産党系の二つでできていた日教組が分裂し、今の姿となる。ちょうど連合ができる時であった。共産党系の労働組合は連合を労働組合の右翼的再編であるとし、独自のナショナルセンターをつくり、日教組から脱退した。現在、都道府県レベルでは分裂した教組もあり、一緒にやっているところもある。
・ 連合に入ったことにより、1990年には、日教組は「参加・提言・改革」の路線に変更する。日教組の委員長が中央教育審議会の委員になるという変わりようであった。私が入った頃は総学習、総抵抗というのが運動スタイルであった。
・ 2002年に学校5日制が完全実施され、「ゆとり教育」に入った。しかし、学力の低下から見直しされている。これらの改革は、中央教育審議会の方針にそったもので、日教組のそれによるものではない。
・ 2006年に教育基本法が改定された。改正というには疑問がある。憲法理念の実現が教育基本法であり、本来は憲法が変って後、教育基本法が変るものである。
・ 日教組は、55年体制(自民党2:社会党1)を維持してきた社会党の、ある種の中核部隊であった。細川政権ができて一時期自民党が分裂し、自社政権ができた時点で55年体制は終わった。
・ 私自身、社会党と付き合いがあったが、あの党はやはり二本(日本)社会党であった。左と右に別れてけんかばかりしていた。日教組もしかりである。今でも大会では、右と左のグループごとに集まっている。これでは体制変革の力などありえない。




(3) 日教組の組織形態
自治体 (支部 or 単組)
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府県教組 (本部 or 連合体)
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日教組 = 府県連合体
・ S市46学校(18中学校、28小学校)。学校単位で分会を組織。職場がばらばらであるから会議に集まるのが大変。機動性を欠く。
・ S市、豊中市などは単組(単一組合)となり、大阪府レベルでは連合体(大阪府教職員組合)をつくる。
・ 支部は本部の方針決定の拘束を受けるが、単組は独自に方針が決められる。上の連合体には拘束されない。とはいえ、単組のあいだで方針に大きなへだたりはない。その市独自の課題があるから、それへの取り組みで違いが出てくる。
・ 日教組は府県教職員組合の連合体であり、日教組の方針が全国津々浦々に徹底されるのではない。日教組の方針、県の方針は別のものである。



(4) 日教組の法律上の位置づけ
・ 職員団体(地方公務員法と教育公務員特別法で認められた組織)
・ 団結権と交渉権を認められている。自治体では、自治体教育委員会が交渉相手。府県レベルでは、府県教育委員会が交渉相手。
・ 日教組は法人(ごく最近までは任意団体)として文部科学省と交渉。教員の給料は1/3が国庫負担(3年前までは1/2)、残り2/3が府県レベルから出されている。地方公務員であるが、一部国から給料が出ており特殊な立場であり、当事者を特定しにくい存在となっている。国の人事院の勧告は教員の給料と密接に結びついており、府県負担分については府県の人事委員会が人事院の勧告をみて府県に勧告する。最後は議会で承認される。
・ 先月5月に大阪府橋本知事が教職員給与のカットをしたが、本来のシステムからいくと府の人事委員会を無視している。1970年代ならばストライキが起こっても不思議ではない。人事委員会も注文を付けている。
・ 争議権・協約権はない。公務員は労働者の権利を著しく制約されている。
・ その代償機関として、第三者機関(国:人事院、府県:人事委員会、市:公平委員会)が設けられている。

2. S市の日教組役員として
1968年 愛知県丹羽郡大口町にて中籍小勤
・ 大阪から来た生意気な新任として、会議でまじめに発言しているうちに同い年の教員と仲良くなる。その細胞(共産党)から学習会の誘いを受ける。
・ 入党の誘いもあり、惹かれる部分も正直あった。私自身、拘束されるのがきらいということもあったが、共産党は1970年前後当時、連日連夜解放同盟攻撃キャンペーンをやっていたことに疑問を感じていた。
・ また、教え子の父親に面白い人がいた。授業参観日の日、その子の母親から「主人が現在、首切り撤回闘争をやっている。もし娘に何かあれば、お知らせください」との話があった。家庭訪問禁止という変な学校であったが、その子の父親に興味を覚えて市営住宅に闇にまぎれて会いに行った。お父さんは、とても面白い人で雑誌「思想の科学」が手作りの本棚にずらりと並び、そうした類の本が一杯あった。
・ その人に共産党と解放同盟がなぜ反目するのか、どちらが正なのか、と聞いてみた。その答えがもっともであったので、そのほかいろいろあったが、共産党への入党は断った。
・ 教組の青年部に顔を出していたが、おだてにのって青年部常任委員に立候補することになった。その立候補抱負ビラに書いたのは、2つ。一つは、通知簿の相対評価廃止。5段評価で1学期に2の子どもが非常にがんばったので、2学期に4を付けたら、校長の呼び出しを受け、一度に2段階も上げてはならない、といわれた。評価の分布が決まっているという面もあるが、相対評価に非常な矛盾を感じていた。二つ目は、政党の組合介入反対。宿直の晩をねらって4人ほどの細胞がどかどかとやってきて、恫喝された。どつかれることこそなかったが、恐ろしい思いをした。そのあたりから、私は共産党と決別した。
1971年 帰阪。S市に赴任
・ 愛知県は昔から管理教育で有名。校長を筆頭にピラミッドがきっちりと出来ている。若い元気な教員には窮屈な所であった。子どもへの教育も管理的。しつけもきびしい。新聞でもキャンペーンが張られたことがある。
・ S市に来て、これが同じ日本の学校か、と思った。教員の自由もすごくある。愛知県では、もう教職員組合に入らないでおこうと思っていたが、大阪は先生も生き生きしており、職場も非常に楽しそうであった。自分で考えて仕事をするというところがあった。
・ すぐには入らなかったが、様子をみながらここなら行けるということで組合に入った。
・ 「管理と自由」はむずかしい問題である。愛知県では、週案と日案をその都度点検してもらう。めんどくさい作業であったが、実際は元となるマニュアルを写すだけのことであった。創意工夫して書くのではなくて、それさえ提出して、教務主任、教頭、校長の判さえもらったらよかった。意味のない、いやな作業であった。
・ S市はそのようなものはなかった。代わりに、これはと思う単元について、自分でノートを作り、導入、展開といった内容の指導案を書き入れる。しかし、自由が自治まで高まればよいが、自由なあまり、管理職の力が弱い学校では自由放任となりこれも問題であり、「管理と自由」はなかなかむずかしい課題である。
・ 1978年にS市教組の青年部長に出ろといわれて、誰も出る者がいないので引き受けることになった。青年部の資格は30歳までで丁度30歳頃であったが、ふけ顔のせいでずいぶんと怪しまれた。
1980年 市教組専従役員に
・ 1980年に専従役員となった。その間、教師は休職。組合から給料をもらう。書記次長を2期、書記長を1期つとめ、1983年に市教組の執行委員長をやった。当時38歳で府下では一番若かった。何のために大阪に帰ってきたか自分自身、疑問にも思った。
・ この間、主任制度反対闘争をやり、学校の体育館で教育委員会と徹夜に近い交渉を重ねた。教育委員会は警察を待機させたり、血気にはやった一般組合への目配りなど、緊張した交渉であった。
・ また、労働戦線統一(連合に入るべきか、否か)について組合内で論争がはげしい時であった。私自身は、労働組合は大きいほうがよい、大きいほど社会的影響力が強くなる、という考えをかねてよりもっており、連合に入るべきと考えていた。
・ したがって、S市教組は府内衛星都市のなかでも、早くから態度を明確にしていた。一方、府全体(大阪教組、大教組)は当時、共産党が主導権を握っていた(この要因は、解放同盟との距離の取り方によるものである)。ところが、大教組がこのような状態では、連合への加盟を決めている日教組に大阪府全体が抜けることになってしまう。そのため、大阪で日教組を立ち上げる必要があった。
1989年 大阪教組執行委員に
・ そこで、1989年、私はS市教組委員長を引退し、大阪教組の執行委員の一つに反主流派として就いた。使命は、2年間で大阪連合に入るため、大阪府教組を旗揚げすることであった。結果として、1990年、主流派は出て行き、共産党がつくった全国組織、全教に入り、我々が残ることになった。
・ 現在の大阪には、大きく全教系と日教組系の二つの教職員組合がある。日教組系は義務教育の学校に強く、S, 豊中、門真、守口など北のほうで強い、全教系は高校、支援学校に多く、堺や泉北など南のほうで強い。両者の勢力(組織率)はほぼ拮抗している。府は二つの団体と交渉しなければならないから大変である。
1991年 S市教組委員長に復帰
・ 1991年、S市教組委員長に復帰し、94年に組合役員を引退した(50歳)。2年間教壇に立った後、教育委員会の教育センターの教育相談を担当した。最後は学校にもどらず市の職員で終わった。
・ 組合役員をやったから校長、管理職に就いてはならないとは思わないが、私は組合役員を長くやっていたから、先生方のあいだではそのようなイメージが定着しており、今さらそのような職にはつけないという気持ちがあって管理職の道を選ばなかった。
・ 今は、先の教育センターの不登校児対象の教室で非常勤で教えている。今まであまり教壇に立たなかった罪滅ぼしのつもりでやっている。

3. その他
(1) 運動団体と日本共産党の確執 ―分裂の歴史―
・ 原水爆禁止運動(中ソの核実験をめぐって)
いかなる国の核も非(運)、社会主義国の核は是(共)
・ 部落解放運動(同和対策特別措置法をめぐって)
法を武器にして住環境、教育環境の向上を(運)
この法は毒まんじゅうだから食べてはだめ(共)
・ 労働戦線(連合の結成をめぐって)
総評、同盟、中連、新産別等の乱立・対立からナショナルセンターの統一へ(運)
連合設立は右翼再編、かつての産業報国会になると懸念(共)
(2) 市教組での役員選挙
・ 毎年3月に役員選挙が行われ、毎回共産党系候補との戦い。
・ 毎回、同和問題が争点。社会党と労働組合は支配関係にないが、共産党は労働組合に対し完全支配。
・ 市教組の規模は最大時で2,000人。ビラを配ったり、電話をしたり、毎年争う。私は負けたことがなかった。
・ 連合反対にもう一派、最左派がいた。その拠点がS市であった。私はこれら2派を相手に闘ったことになる。



(3) 解放運動の光と影
・ 解放運動が教育に突きつけた課題は非常にインパクトが強い。今まで気づかれなかった問題を提起した。良心的な教員は被差別の現実から学んでいこうという立場をとった。もともと、同和教育に熱心であったのは共産党系の教師であった。
・ 同和教育から人権教育、障害児教育、在日外国人教育の問題、さらには男女共生教育へと展開してきた。
・ 解放運動は大衆団体によっているから、それなりの腐敗(例、幹部の公金着服)があったのは事実。だからといって、解放運動の全面否定とはならない。
(4) 日教組の派閥
・ 日教組にも左派(衛星都市)と右派(大阪市)がある。1986年~87年に400日抗争をやった。
・ 私自身はどちらでもなく、両派とうまく付き合ってやりくりした。

(5) 現状
・ 労働組合は分裂したらだめである。私がS市教組書記長を最初やっていた時、すなわち分裂前は、S市教組の組織率は90数%であった。今は、何とか50%を保っている現状である。府下で50%以上を保っているところは少ない。近畿では、兵庫、滋賀、三重が組織率高い。京都、和歌山、大阪は50%あるかどうかの惨状である。
・ 公務員組合は民間のユニオンショップと違い、加入が任意のオープンショップである。それが組合ばなれの大きな要因である。
・ 日教組はかつての絶対的な地位から相対的な地位に落ちている。抵抗と闘争の路線から、参加・提言の路線へ変っている。しかし、古い日教組アレルギーが今でも残っており、日教組の現状を正しく見れば、そんなに日本の教育に大きな害になっているほどの力もないが、やはり日教組はたびたび槍玉にあがっているのが現状である。

質 疑:
小原(2期):
特異な体験のお話をきくことができた。教師、先生は聖職者ではないにしろ、一般の労働者と性格が少し違う。通常の地方公務員よりも2割ほど給料が高いのではないか。
岩田:
教職員の給与は一般的な昇給がない。超過勤務手当てもない。その分、4%上乗せされている。その点では、優遇されている。
小原(2期):
競争原理を否定して、何もかも平等、運動会で着順を決めないというのはどうかと思う。
岩田:
平等教育の悪い例としてよくとりあげられるが、S市ではそのようなことはしていないし、全国規模で調べても非常に特異な例である。そんな例がマスコミで面白い例として取り上げられたのだろう。
小原(2期):
成績評価がいかんとか、身体の弱い子どもに配慮して皆勤賞をやめるといった話があったように思う。
岩田:
親の考えや意見が反映されている。最近は、自分の子どもが出来たことはほめてほしがるが、逆にそうならなかった時に親から文句が学校に集まる傾向にある。そうなると、学校のほうもやめてしまおうか、ということになりがちである。
小原(2期):
声の強い親に言われっぱなしという傾向がないか。是々非々で、先生、教育委員会はもっと毅然と自信をもって対応してほしいように思う。
岩田:
子どもを教えている以上、教員としての誇りをもって仕事をしなければならない。公教育では、恵まれない子どもというのはクラスに必ずいる。そのような子どもたちがクラスでよけ者にされないか、結構心配りをしている。









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