事務局より
海外に憧れ、外大に入学。ペルシャに惚れ、「イランの砂漠を緑に!」を目指す会社に就職。水資源開発に取り組まれました。革命前夜に帰国。中途退社後、大学で中東経済学の教鞭をとっておられる島さんがペルシャ、イランへの熱いおもいを語ってくださいました。地図、資料、写真を豊富に用意していただき、ペルシャ・ペルシャ文物の素晴らしさにふれることができました。

島 敏夫さん(8期)

「私のイラン『悪の枢軸イランは麗しの国』」

1. イランとのかかわり 
1-1 昭和40年4月

ペルシャ語に入学

新宮出身。背後には紀伊山地の山、前には太平洋という自然環境で育った熊野の人々は、眼前の海の向こうの海外にあこがれた。 ⇒ そうだ外国語大学へ行こう!
神籠る場所熊野という地域がら歴史に興味をもつ。= 中国、エジプト、メソポタミア、インド、ペルシャ ⇒ 日本で唯一の学科=P語科(当時唯一。今は東京外大にもある)
石油が取れるから何か仕事はあるだろう! ペルセポリスを見てみたい。

1-2 昭和44年4月
㈱三祐コンサルタンツインターナショナル(名古屋)に入社

愛知用水をつくった技術屋たちが完成後農林省に戻らずに設立した水資源開発コンサルタンツ会社
世界中で水資源開発、ダム建設・灌漑・洪水調整など農業開発に関する貢献を! Project Xにて紹介。社長久野庄太郎「島君おまえはイランの土になれ!」
勤務するかたわら、現地での労働許可を取るため、会社の命で2年間名古屋大学工学部にて「土木工学1」「土木工学Ⅱ」「建設機械学1」「建設機械学Ⅱ」「土木施工学」等を科目等履修生聴講生として学ぶ。



1-3 昭和46年11月
イラン・テヘランへ駐在員として赴任

私は「モハンデス」=技術者ということで労働許可と居住許可を取得
砂漠を緑に!から新幹線まで!もう何があってもおかしくない革命前!

タレガン水資源開発プロジェクト: エルブルズ山脈の水を南に流域変更して灌漑用水
記念すべき海外プロジェクト第1号。イラン国政府の発注により、フィジビリティスタディから工事完成まで全てを行った。首都テヘランの北の山脈からカスピ海へと流れるタレガン川を流域変更し、二つのダムと山脈を貫く9kmにも及ぶトンネルにより、首都圏の台所を担うガズビン平野5万haに灌漑を施した。エンジニアが自ら道なき道を行き、測量、三角点作り、地図作りと、まさに全てを行った世界的にも評価の高いプロジェクトである。
シスタン水利用開発プロジェクト: アフガニスタンから流れる水を貯めこんで利用

ミアンカンギ:  同上

テヘラン・マシャド新幹線計画: 日本の新幹線を走らせと国王の命で設計図完成

カスピ海地区養蚕近代化計画: 日本の養蚕の技術をイランに移転、製糸工場建設 カスピ海の畔でメイド付きの一戸建ての邸宅

三井のイラン・日本石油化学プロジェクト(IJPC): 8期の加藤善徳さんは三井側で参画。両社で契約を手交。

佐藤工業に月300万円(個人の手取りは10万円)で出向。古川電工にも出向。

ジョイントでプロジェクトをする時、キーマンは誰か?技術屋も立派であるが、やはり費用対効果を考える経済屋。言葉ができても不十分。技術屋でも言葉は自然に覚える。プラス何かが必要ということがわかった。
イラン人は、アメリカの体制は嫌いだがアメリカには夢がある、と好感をもっている。

1-4 昭和53年

イラン馬鹿にもなりたくなくて、帰国。以後出張ベースでイランに。間もなくイラン革命。対イラク戦争勃発。イランの仕事の機会がなくなり退社。河合塾に就職。
「石油資源にめぐまれ、潤沢なはずなのに先進国に追いつけない。なぜか?」名古屋市立大学大学院の社会人入学試験をうけて入学、勉強しなおす。外大におられた梅津先生と再会し、その後の私の道が今のように変わる。




2. 麗しのイラン
2-1 歴史

1979年のイラン革命以後、イランイスラム共和国となり、イスラム法による統治国家となる。
中東にあって、非アラブ民族の国   アラブ ⇔ ペルシャ

ペルシャ帝国:

アケメネス朝
(BC550)
開祖キュロス大王。東はインダス川、西はエジプトが版図。都はスサ。被支配民族に寛容。ダレイオス(ダリウス)大王、ペルセポリス宮殿を建立し、栄華を誇る。スサからサルディスまで公道「王の道」をつくり、駅伝制度をつくる。
BC330、ダレイオス3世の統治下アレクサンドロス大王の侵攻により滅ぶ。
ササン朝
(226-651)
ゾロアスター教を国教とする。ホスロー1世最盛期。東ローマ帝国と抗争。
この時代のガラスの器などが日本(正倉院の漆胡瓶)にも伝来している。ギリシャ、ペルシャ、インドの複数文化が混在。華麗・典雅な様式。国際性豊かである。イスラムに滅ぼされる。
サファーヴィー朝
(1501-1736)
世界に名をとどろかせた最後のペルシャ王朝。西のオスマン帝国 ⇔ 東のサファヴィー朝ペルシャ帝国が並ぶ(首都イスファハン)
Isfahan is a half of the World. イスファハンは世界の半分といわれるほどに繁栄。
歴史的建造物として1600年初頭に建てられたブルーモスクが有名。世界遺産。
カジャール朝
(1796-1925)
イギリス・ロシアの傀儡政権
パーラヴィー朝
(1925-1979)
農地改革(開放)を試みたが、モスクなどを所有する大地主のイスラム世界が大反対。土地は与えられたが、水の配給ができず、失敗に終わる。識字教育、女性参政権など近代化政策にも取り組んだ。インフレや秘密警察など、社会のひずみも生んだ。



2-2 民族
イラン人たちは周辺のアラブ人とは違うということを強く意識し、アケメネス朝以来の歴史に誇りを持っている。
「アラブ人」という概念は人種的存在とは言えない。むしろセム語(アラビア語)という言語を共有する人々としてであったり、聖書に伺えるある人物を始祖とするという共通概念で規定される。アラブ人は旧約聖書に登場するアブラハムが妻サラの女中であるハガルとの間に生ませた長男のイシュマエルを祖とするイシュマエル人の子孫と称し、イサクの子孫であるユダヤ人とは別の民族になったとしている。民族的概念と人種的概念が一致しないという点で、アラブ人とユダヤ人は共通するといえる。最初のアラブ人はアラビア半島の住民であるが、イスラム教の聖典のクルアーンはムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉とされているため、イスラム教の拡大によってベルベル人やエジプト人など近隣の多くの人々が言語的に同化させられ、アラブ人となった。 (Wikipediaより抜粋)

イラン人は人種的にはアーリア人とされる。彼らが使用する言語はペルシャ語であるが、これはイラン中央部のファールス地方で使われていた言葉であり、言語学的にはインド・ヨーロピアン語族に入る。インド・ヨーロピアンであるから、英語に近く文法は複雑でなく、また、語順がほぼ日本語と同一であるため我々には学習が容易である。ただ、アラビア文字を使用するため最初はためらうことが多い。アラビア文字の使用とともにアラビア語の語彙がペルシャ語に流入し、ペルシャ語本来の語彙と混在し非常に表現豊かな国語となっている。1935年に国名をペルシャからアーリア人の国という意味であるイランに改称した。「ペルシャ」のほうが麗しい。


2-3 ペルシャの美
2-3-1 ペルシャといえば?


何と言っても最初は絨毯!
ペルシャ絨毯は中国段通のように毛足長くなく、フワフワしていない。限りなく薄いほうが喜ばれる。デジタルカメラの画素数のように、一定面積にどれだけの結び目があるで美しさが冴える。いい絨毯になると裏も表同様にくっきりとした柄になる。
地方によって模様が違う。ペルシャ絨毯はシルク製。


ご持参の絨毯は柔らかで軽く、模様が細かで上品でした。

2-3-1 工芸品

ガラス製品
ハータムカーリー(象嵌細工)の小物
ミナーカーリ(琺瑯や金属の容器に細かい図柄を色付けしたもの)
ミニアチュール(微細画)ラクダの骨に描かれている。
陶器
9~10世紀 ニシャプール 
12~13世紀 ラスター彩 
17~18世紀 景徳鎮風

2-3-3 ペルシャの詩人たち

ペルシャ語は美しい言語である。快く鼓膜を打つその妙音は我々を夢の世界に導きいれるが、こうした美しい調べの裏に秘められている詩の世界こそペルシャ文学の大きな宝庫で、そこには美しく花咲き、楽しく鳥歌う詩の国があり、中には愛と真理を湛えて尽きせぬ甘露の流れの存在が見受けられる。
(蒲生礼一『ペルシアの詩人』紀伊國屋新書、1964年、152頁)

詩聖ゲーテは有名な『西東詩集』の中で、ペルシャ語の原文さえも引用して、古きイランの詩人たちを推奨した。代表的な詩人を紹介すると:

オマル・ハイヤーム(Omar Khaiyam) 11-12世紀のペルシャの科学者、哲学者、詩人
1859年にイギリスの詩人フィツジェラルドが『ルバイヤート』を翻訳出版。世界中で翻訳されている。イスラム社会で酒や女を詠う異色の詩人。

サアディー ( ? ~ H691=1291/92)
シーラーズの詩人。有名な詩集「薔薇園」「果樹園」の作者。

ハーフェズ ( ? ~H791=1388/89)
シーラーズの詩人。現在でも多くの人に彼の詩は暗唱されている。
「ハーフェズ」はコーランをすべて暗誦した人に与えられる称号でもある。
彼の詩集を用いた「ハーフェズ占い」なるものもある。

酒は歓喜(よろこび)を与え、風は薔薇花を吟味するとはいえ、
琴の調べに合わせて酒を嗜むな、監視(みはり)が厳しいから!
つぎはぎした衣のそでに酒盃を隠せ、
世は酒壜のように血に飢えているから!
涙で酒から僧衣を洗い浄めようではないか、
今は丁度信心の季節(とき)で禁欲の世であるから!



2-4 ペルシャの宗教
えっ!イランはイスラム教ではないの?
2-4-1 イランの古代宗教
それはゾロアスター教
善悪二元論、善行を積まないと悪に滅ぼされるとする。
ゾロアスター教の守り神は「火」。聖なる火で死体を焼くのはタブー。鳥葬であった。

2-4-2 イランのイスラム教
イスラム世界のなかでは少数派のシーア派である。シーア派の中でも12イマーム派を信仰し、イラン人は常に救世主を待ち望んでいる。シーア派のなかでもやや異端に属する。12人の聖人のうち11人が暗殺されたが、1人だけ隠れて生き延びている。いつか救世主として帰ってきて私たちを助けてくれる、ことを信じている。1979年のイラン革命で戻ってきたホメイニをこのイマームと重ねて見る人が今もいる。負けても負けても次にはよくなるというところは、国民性にも現れており、世直しをしようという意識が現在のイラン国民にもあるように思える。


イランの現体制が崩壊する日は近い!!!!!

参考:自著「中東世界を読む」創成社新書(2006年6月発行)



付録
イスラム文様








アラビア数字










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