事務局より
OB会では、「北村欣ちゃん」と世代を超えて親しまれ、そのやわらかいお声と話し口調が心地よく、歌声も評判の北村さん。実は、堺で昔ながらの製法を守った線香造りの伝統工芸士、堺ものづくりマイスター。お香にまつわる話、お得意の歌、歎異抄との出会いについてお話いただきました。

北村 欣三郎さん(7期)

歌も唄って何かとお騒がせですが
自分史と共に語るお香との40余年

* 北村薫主堂(昭和24年からまがいなりに株式会社 薫主堂)の沿革
明治20年に、祖父北村国太郎が堺で薫主堂を創業。堺の大空襲でも、店のある界隈は焼けなかったため、戦後は問屋からも重宝された。父、兄が受け継いでいた店を、昭和44年に引き継ぐ。他社がシェアを伸ばしていた中、苦戦の連続、販売は問屋任せ出あったが、製造直売に徹する。堺市が政令指定都市になったのを機に、市が観光業に力を入れ出し、全国に堺をアピール。「堺ものづくりマイスター」に選ばれた。このごろはJTBなどのツアーのお客さんもあり、ホームページを作るとネットでも注文がくるようになった。天然香料と伝統的な製法にこだわって、本物のお線香を作っていることが、うけているようだ。
詳しくはお店のサイトも参照 

http://www.kunsyudou.jp/



* 線香お香と日本人
・ お香類はいつ頃から日本人に使われ出したか
・ 源氏物語や枕草子にもお香の話が頻繁に出てくる
 火鉢に香をたいて、着物を被せて香りを移す
 梅が枝の巻 光源氏自ら調香する話
 髭黒大将が玉鬘のもとばかりに通うので、正妻が怒って香炉の灰を投げかけた話
・ 公家社会から始まった香道
 一番高価な伽羅は1キロ1000万円。1グラム1万円。金より高い。贅沢な遊び。
 香道は志野流と御家流の2つの流派が中心。だが、そんなに一般的ではない。

* 日本人の生活と香文化
・ 線香の歴史は意外と短い
小西行長の兄、如清が朝鮮半島から線香技術を習ってきた説や、長崎に中国から伝わってきた説がある。信長が焼香を投げつけるシーンでも線香は無かったはず。今の日本人の生活様式が確立した元禄時代に、線香が生活に入ってきたと思われる。
・ 一般に香に対する関心は少ないからごまかせる
関心のある人に講演をすると、ものすごい反響がある。
・ 宗教離れと業界は嘆くが、若い人は却ってお香好き
アロマセラピーの流行で、比較的若い人からの注文がある。天然香料として使う「沈香」には、気持ちを穏やかにする鎮静作用がある。シティリビングやテレビ、ラジオ、雑誌、ホームページを通じて、北海道から石垣島まで、メール、ファックスで注文がくる。
・ 弊店の作る商品はいわば勤労の結晶
線香に使う天然香料は主に「沈香」「白檀」。
漢方薬でもある桂皮、丁子、ウイキョウ、ナツメグも。
香料を入手するにも、鑑定できる鼻が要る。天然香料は非常に高価なものだが、ラオス辺りで質の悪いものを買って売りに来る素人もいる。
原料に合わせて試作を十数回繰り返して調合していく。大量生産の時代に合わない。合成香料(ケミカル)は、とっつきはいいけれども、天然香料にはかなわない。
・ お香類は所詮は感性に訴えるものだから、、、
・ 日本人と外国人とはお香の嗜好が全然違う
*三男なのに家業を継ぐ羽目になった要領の悪い自分
・ 戦災に免れたお陰でゆったりしていた北村家
・ 利殖に疎くビジネスチャンスを逃した我が家
・ がつがつした家ではなかったので家族も従業員もおっとりしていた。終戦直後なのに福利厚生はちゃんとしていた薫主堂
・ 父の脳出血、糖尿病などの病気と惣領の甚六の兄、趣味人の兄の為に次第に家業が傾いて行く
・ 兄の家業からの逃避と家業存続で揺れる我が家
・ 男気を出して家業を継いだものの苦戦の連続
・ 父の死で相続でもめる
・ 子育て、介護が並行していていつの間にか親が死に子が育っていた
・ 製造直売に徹し、やっと稼げるようになる







* 歎異抄と出会えた喜び




・ 我が家の宗旨は法華(日蓮宗)なのに、、、
・ 門徒(浄土真宗)はデタラメと決めつけていた
・ 仏教(釈迦仏教)は悟りを開くために修行する自力作善の仏教
・ 他力本願の念仏の教えはお釈迦さんの教えとは別のもの
・ 罪悪深重煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします
・ 善人なおもって往生を遂ぐいわんや悪人をや
・ 何故歎異抄に傾倒したか
親の介護と子育ての時期が重なり、かなり大変であった。その時に三人目の子ができたが、やむなく中絶した。毎年水子供養をしてきたが、4、5年前、安良岡 康作さんのCDで歎異抄を聴いたときに、その心のつかえがとれ、目をみひらく思いがしたのがきっかけ。
・ 疑い深い人間にとって信心はなかなか容易でなく、未だ教えとして読んでいる段階
要は、自力で良いことをして悟りを開こうという考えを持つのとは違って、とてもじゃないけれども、それではおぼつかないから、他力(阿弥陀如来)に救済されて救われるということ。道徳上で考えれば、善人が救われても悪人が救われるのはおかしいとなるけれども、悪人とは、自分は罪悪深重煩悩熾盛だと深く見つめて分かった人間のことで、それを阿弥陀如来は救って下さる。自分の力で修行したり悟りを開くんだという人にとっては縁のない考えだということ。

以上









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