事務局より 学生時代からの北海道へのこだわり、教員生活安定後の自転車ひとり旅。沢山の写真と地図で西村さんの誠実かつ一途な半生を振り返っていただきました。 |
西村茂忠さん(1期) 「渡り鳥・自転車の旅」 1. プロフィール ・ 1938年、岸和田市生まれ。公立小中校。岸和田高校で陸上競技部所属。その当時は受験のための2年引退はなく、3年の冬も駅伝に出場。 ・ 学費の関係で公立大学一本に絞る。どうせ公立大学は現役で無理と判断。1期校は阪大志望。1年浪人して外大英語科に。 ・ 岸和田高校の2期校は和歌山大学志望者が多かった。予備校(上六の日本予備校)で外大を知る。外大の英語科の先生数名、国語の先生がアルバイト。何人かの先生には外大入学後もお世話になることに。 ・ 1962年、日本レイヨン(今はニチボーと合併してユニチカに)入社。 ・ 当時、化繊業界は調子が良かった。ナイロン製造は東洋レーヨンと日本レイヨンだけ。テトロンは帝人と東洋レーヨン。 ・ 合併後、原綿の販売から編み物部門に配転。仕事の雰囲気が変わり、悩む。 ・ 一方、父が身体をこわし、家業(繊維撚糸業)が気になる。新しい機械を入れたところで償却も大変。 ・ 1972年、退社し家業を引き継ぐ。下請けの家内工業。 ・ 早朝に起き、1時間弱ほどかけて原糸をもらいに行く。家で撚糸にし、出来たものを翌朝、製品として納める。毎日一度は運搬。忙しかった。従業員は2~3人。父の代わりに妻も加わる。 ・ 1979年、機械の借金返済を終え、家業をたたむとともに、淀之水高校(現・昇陽高校。最近、女子高から男女共学校に。)英語科教諭に。親戚に同校の校長先生がおり、年に1度の正月挨拶の折にたまたま就職口の情報が耳に入った。1年遅れていたら、教諭の口はなかった。運がよかった。 ・ 英語は家業をしながら準備していた。英語と関係のない、この時の方が英語をよく勉強していたように思う。 ・ 2005年、67歳で退職。現在、1年単位契約で非常勤講師として週3~4勤務。 2. 生い立ちと性格形成 ・ 両親と養祖父母(6人の子どもをなくし、父を世継ぎの養子に。同じ西村姓。)が折り合いの悪いなかで育つ。 ・ 母の産後の肥立ちが悪く、養祖父母(本家)に引き取られて育てられる。両親と年子の妹は近くに別居。 ・ 母とは顔を合わすことがあったが、養祖父母を両親と思っていた。母親とは言葉もろくに交わさなかった。それほど養祖父母に溺愛されていたからだろう。 ・ 養祖父母は初孫の私を「目の中に入れても痛くない」と言う一方、不仲の両親のことを悪く言った。このように、両親と不仲の養祖父母に溺愛されるといういびつな環境で育ったためか、わがままで依頼心の強い人間に育った。何かあったら泣き、すねることが多かった。 ・ やがて両親も考えたのか、遠くに住まうようになり、顔を合わせる機会が少なくなった。 ・ 小学校2年の時に養祖母が死去。実の母親を亡くしたように悲嘆にくれた。その夜叔父に連れられ火葬の光景を目にする。 ・ 10坪くらいの土間に2列の細長い溝が掘られていて、一方はトタンで覆われていた。他方には小さい物体がくすぶっていて、係の人が長くて太い棒で持ち上げて燃やしていた。子供のようであった。養祖母の方のトタンが開けられなかったのは不幸中の幸いだった。私は入り口の柱に寄りかかって倒れそうになるのをじっとこらえていた。 ・ その時叔父は「これからはおじいさんと両親と、仲良うがんばって暮らすんやで」という養祖母の言葉が聞こえたと私に言い聞かせた。それは私を励ますための誰かの企てだったにしても、幼いものには残酷すぎる経験だった。このことがトラウマとなっていつまでも心の大きい部分を占め続けてきた。 ・ 養祖母の死を機に、養祖父と両親、妹、その後にできた弟と同居する。 ・ このような生い立ちから自身の性格は、依頼心、神経質、内弁慶、短気癇癪、孤独、独断猛進といった言葉で表現できる。 ・ 内向的で神経質な一面、自分の思ったことは人の声に耳をかさず突っ走る。たとえば、夏のお盆で大事な時期に30日間も家を空けて自転車で旅をしていたのもその一端である。家族が許してくれたことには感謝している。 3. 自転車との出会い ・ 中・高校時代は陸上部に入り中・長距離をやっていた。陸上部は個人競技が中心で、部員は仲間というよりライバルで、孤独な長距離ランナーであった。 ・ 2年の夏休み前に、創部間もないワンゲルに入部。山下さん(現・田中さん)や加納さんなど、温かく迎えてくれた雰囲気が何ともいえず心地よかった。木造2階の油臭い部室であった。 ・ 夏合宿の第1回は紀伊半島、第2回は伊豆半島。 ・ 3年の夏合宿に北海道に行く。集中分散式で最初に黒岳、旭岳、そこから3パーティに分れ、私は知床パーティ。最後は帯広に全パーティ集合した。北海道の雄大さに取りつかれる。 ・ 北海道を訪れたいという夢はずっと持ち続けていたが、往復旅費と道内の移動費用が大問題だった。自転車旅行は安価だし、距離も稼げる。 ・ キャンピング車を買ったが、初めての北海道自転車旅行は自信がなかった。札幌には小学校来の友人が移住し、私が学生時代にすでに所帯をもっていた。その彼に道路状況、民宿の有無等を問い合わせているうちに、「心配せずに俺の家へ来い、うちを拠点にしたらよい。」との言葉に甘えた。 ・ それに加えて、若くして亡くなった小学校来の友人の長男が、中学3年の時上記の札幌の友人を頼って自転車旅行をしたことも刺激になった。前後とサドルに計5バッグの付くキャンピング車の初遠征は北海道1ヶ月という無謀な旅だった。教員生活も6年目に入り、ようやく勤めも落ち着いてきた1985年の夏のことである。 4. 北海道サイクリングひとり旅(以下は、スライドを中心にご覧ください。) ① 1985(S.60)年 利尻・礼文~宗谷岬~網走~知床~釧路~阿寒湖~帯広 31日間 1,830km ② 1988(S.63)年 札幌~天売・焼尻~稚内~旭川~襟裳岬~富良野~札幌 32日間 1,540km ③ 2010(H.22)年 小樽~積丹半島~奥尻島~函館~大沼~ニセコ~小樽 15日間 790km ・ その他 1986(S.61)年 大阪~岡山~広島~山口~萩~松江* 1987(S.62)年 サンフランシスコ~セントバーバラ~ロサンゼルス(一部バス)* 1988~1990年 四国八十八ヶ所参拝サイクリング *YMCA主催のBike for Peaceというイベント 5. 兵庫県石子路之会(いしころのかい) ・ 会の活動:1983(S.48)年~2002(H.14)年、計22次にわたり中国全省訪問。 ・ 個人では中国を走れないので入ることにした。ただし、定員があり、空きが出るのを待って、1989年に入会できた。 ・ ところが、この年は天安門事件のため中止。かわりに個人的に台湾を走った。 6. 石子路之会中国サイクリング ① 1990年 ウルムチ~トルファン~ハミ 630km ② 1991年 カシュガル~アクス 530km ③ 1992年 蘭州~西安 680km ④ 1993年 内蒙古フフホト~天津 1,005km ⑤ 1996年 黄山~杭州・蘇州~無錫 575km ⑥ 1998年 貴州省貴陽~黄果樹(バス)雲南省昆明~麗江 730km ⑦ 2000年 青海省青海湖~西寧 (バス) 甘粛省酒泉~敦煌 650km 計約4,800km 各回の行程概要 ・メンバー数:30名~50名 ・フォーメーション:先頭:公安車 メンバーは空荷 最後尾:バス、トラック ・日程:8時出発:40~50分毎に休憩(10~20分) 6~8本/日 約100km/日 ・宿舎:ホテル、招待所、集会所、テント ・公式訪問・式典:兵庫県各市長の親書を携え中国友好都市行政府を表敬訪問 7. ビデオ(約15分) ミニフォーラム(全員参加) 参加した皆さんそれぞれに近況、日々の雑感など、話題を提供いただきました。主なキィーワードを列挙します。 岡村:幕末の海外渡航者/薩長各30名/幕臣700名/あなどれない中央のストック 和田:TOEIC900点越え挑戦/海外旅行計画 岡本:常勤から非常勤へ/ヨーロッパに始まった海外旅行経験/ミャンマーの今後 吉崎:転職/日本語学科卒の効果/城陽市での森林ボランティア 鎌田:子ども向け「偉人伝」の様変わり/ある若き女性学者/レディ侍 小原:維新塾/国政と年齢・資金/維新の嵐 佐藤:語科卒業50周年パーティー/来年ワンゲルOB会新年会幹事(1/10甲子園ノボテルホテル) 多田:非・鎖国/幕末の海外情報/ジョン万次郎 広岡:「嘉」の売上/同期・柳の見舞/お布施の多寡 井内:中国合宿の思い出 瀧沢:これからの半導体 西村:勤務先が男女共学に/男子生徒の扱いやすさ 橋本:歴史を訪ねることをテーマにウォーキング/牛松山/百万遍 北岡:ヨーロッパ合宿の思い出/現役の動向/外国語学部部員の不在/箕面と豊中 加納:引っ越し/仏壇の扱い/先祖の供養 以 上 |