事務局より
現在、立命館大学にお勤めの田中宏さん。今一番の生きがいは、学生からとったアンケートに全て目を通し、一人一人に回答すること。最近は受講生の数も増え、土日もその仕事をされているとか。そんな熱血先生が辿ってこられた、これまでの歩みは、公私共々、いわゆる普通の人はなかなか経験しないようなユニークなもの。田中さんの熱心な授業とお人柄を通して、人とは違う面白い生き方をしてこられた先生の魅力に、立命館の学生さん達も惹きつけられているのではないでしょうか。
語り手1: 田中 宏さん(13期)

「京都・ワルシャワ・高知・ブダペストそして滋賀:
大阪外大後の30年を振り返って」




はじめに
現職:立命大学経済学部、2000年に赴任、その前は高知大学人文学部(1983年4月~2000年3月)
専門および担当授業科目:比較経済論(比較経済体制論)、ロシア経済論、EU経済論、比較地域統合論




(1)山口県から大阪・京都・ワルシャワへ(1976年~1983年)
✗高校時代:文学青年ではなかったが、河上徹太郎「日本のアウトサイダー」、五木寛之、司馬遼太郎を読む。
✗大学時代:ロシア語科。当時、中心的であった英仏独語ではないものを希望し、ロシア語を選ぶ。語学的能力がないことを直感、経済学を本格的に学び始める。ソ連経済論ゼミ、国際政治学ゼミそして国際経済研究会、基礎経済理論の社会人自主ゼミ。6年かけて卒業。大学院進学の受験勉強を集団で。
大学院進学の時は、毎日9時~21時まで勉強。このとき一緒に勉強した仲間が今も第一線で活躍。
ワンゲルでは、キスリング一つで生きていけるということで、世界のどこに行っても死なない、物怖じしないという感覚を身につける。また、次々と峠を越えて着いた山の頂上で、歩いてきた尾根を見るときの感激が力になるということを知る。

✗ 京大大学院経済学研究科進学。社会主義経済論、世界経済論、欧州の構造改革論・環境経済論、経済史のゼミ。このときのゼミ仲間は連帯感が強く、今でも夫婦同士で「愛宕会」という会にて深い付き合いがある。
院生修士1回生の時結婚、「紐ではなく糸」になる。普通ではありえないと思うが、何故か彼女の父親が、結婚のGOをくれた。
修士課程で選んだ「ソ連の社会主義初期の30年代の工業化と計画経済体制の導入の研究」は、地道な作業を重ねなければならない上に、結果が出るかどうかもわからない大変な学問。東大中心に研究実績あり。能力の限界とその厳しい状況に断念、博士課程になって「ポーランドの貿易構造分析」を研究テーマに選択。8畳間の模造紙に統計表を作り、電卓で集計を毎日一年間続ける。まだパソコンが無かった時代、大変な仕事であった。

✗1981年9月からワルシャワ大学経済学部留学。同年7月長男貴之が誕生したが、そんな家庭の事情をおいてでも、ポーランドや社会主義の世界を見てみたかった。
音楽心理学で有名なMaria Maturzewska宅に下宿。ポーランド女性は花が好きだというアドバイスをうけ、最初にMariaにバラの花をプレゼントし、好印象を得る。
東日本大震災の時には、Mariaが心配して真っ先に手紙をくれ感激。20数年ぶりにこの秋、Mariaを訪問した時には、体制転換前の留学当時と全くかわらない質素な食生活ぶりに驚いた。
ポーランド語の授業では、先生の教え方がうまかったことが一番印象的。例えば、宿題をやっていかないと「宏、私を愛していないのか」と、大人の会話で責められるという調子。
ハンガリー動乱の経験を市民が知っていたので、いつソ連軍が入ってくるかということが市民の日常の話題。結局、ソ連軍は入らなかったが、12月13日に戒厳令が敷かれ、学校を含む全ての公的なものが軍政下におかれた。店頭に商品のない世界。ただ、地下室には豊かな在庫があり、各家には2年間分の缶詰などのストック。
実際ポーランドで勉強できたのは3ヶ月。82年秋高知大学に就職決定で帰国。フランス経由で。

(2)高知・ブダペスト時代(1983年~2000年)
✗1983年4月に高知大学赴任(講師)。ゆっくりとした生活。1984年に2男誕生。世界経済論の授業を担当。帰国後ポーランドの対外経済の分析を行っていたが、すぐに研究対象をポーランドからハンガリーに切り変えた。ポーランド研究者の場合、東(社会主義)西(資本主義)対立を中軸にすえて世界経済を2分して観察していた。だが、それには疑問をもっていた。東(社会主義)が資本主義の主導する世界経済のなかに包摂されていると考えていた。私と同じ思考する研究者がハンガリーにいることを知り、変更を決意。

✗新しい思考による研究を求めて1986-87年ブダペスト留学(1年半)、世界経済研究所。前半ハンガリー語の取得、後半はSZIM(シム)という工作機械マザーマシーンメイカーを調査した。このメーカー対ソ連貿易の構造分析。当時、西側から輸入した電子制御装置でSZIMが製造した工作機械がソ連に輸出され、それが軍事利用されていた。先に述べた世界経済の構造が企業レベルで証明できた。
3カ月が過ぎた時に初めてハンガリー語が理解できるようになる。研究所ではペレストロイカの影響について、どこまで自由化と市場化、ECへの接近が可能かの議論を知る。ハンガリー人はアジア人の子供が大好きですぐに抱きかかえる。随分可愛がってもらった。最大の思い出の一つはチェルノブイリの原発事故が起きて、ハンガリーも汚染された。生水、生野菜、牛乳を避ける生活が続いた。貧乏だったが、家族が一緒に楽しむ留学生活を終え3月帰国。

1988年、ブダペストの東にあるジュールでの国際会議に参加するため再度訪問。東西の代表的エコノミストが初集合。例えば、チェコ大統領、元大蔵大臣クラウス。チェコの研究者の中にマネタリストがいるということが衝撃的。クラウスは当局の目から逃れて会議に参加するために、穴のあいたジーパンとサンダルで夏休みのバカンスを装って参加。他にアレック・ノーヴやケイザーも。

✗89年3男誕生。1989年~91年東欧の体制転換の動きに毎日固唾をのみながら観察していた。1990年秋突如東京の外務省から電話あり。

✗1991-93年ハンガリー大使館、専門調査員。毎日東京に情勢に関する電報を作成。前半はハンガリーのイノベーションの調査。後半は日本の戦後改革が体制転換にどのように役立つのかの研究。旧ソ連や東欧の体制変換にあたり、各国の経済学者や政策学者がアドバイスするなか、日本の戦後復興の方法がハンガリーの体制転換にも良いと意見したが、エコノミストを含む人材の大きな動員力を持っているアメリカの力の前には及ばなかった。
初めて大学以外の職場(官僚組織)で働く。大使館は「ひとつの村社会」。便宜供与という仕事。例えば、皇族、大臣が来た時には全館総動員体制で世話をする等。70歳を超えた参議院議長のジョギングに付き合う話も。大使館の仕事は夫婦で行うことが前提で、夫婦合わせての在勤手当があった。
この2年のうち1ヶ月間、母親をブダペストに招く。現在、母親は認知症だが、「昔の思い出を語る」ことが、症状の進行阻止に効果があるので、このときの話をするようにしている。

✗帰国前に教授に昇進していた。執行部として学部改組をやり、その上にマスターコースを新設した。そのために文部省との交渉や大学改革を推進した。大学評議委員にもなった。当時の立川涼学長とは様々な点で大学の在り方を議論した。国立大学では初めての、図書館と情報センターの一体化や学生1人1台パソコン必携を実現するのにお手伝いした。
高知大学で10年間これら管理運営の仕事に取り組んだが、この先、役職の仕事ばかりになることを懸念していた時に、お誘いがあり転籍を決意。

(3)ブダペスト・滋賀時代(2000年~現在)
✗2000年に高知大学から立命館大学に転籍。2年間単身。比較経済体制論、ロシア経済論、EU経済論の担当。これらの授業準備で大変(現在も)。同じポジションに長年いることの弊害、マンネリ化の危険性を感じた。その意味ではプラスだった。

✗新しい知的冒険、制度派経済学、進化経済学の研究にも着手。滋賀県で周辺の野山を歩きたいという高知での夢も実現できず。仕事のスピードが遅い。授業負担も凄い。
講義には200名から400名弱の受講生。毎回全員にアンケート(コミュニケーションペーパー)をとり、すべてに目を通し、全質問・疑問にリプライ。学生の、授業にも関係ない、どんな質問にも答えるようにしている。そのためかどうかは不明だが、受講生数がうなぎのぼり。土日をほぼこの仕事に費やすことになるが、教師として生きがいを感じている。
秋卒業の外国人大学院生(修士)を英語で指導、英語で修士論文を作成させている。日本人学生の5名分。中国人留学生は3名分の負担に相当。
留学、国際交流を進める。ユネスコの交流基金(300万円×2回)を取ってきて、10名の学生を連れてブダペスト訪問。逆にハンガリーの学生10名を日本に連れてきたこともあり。

✗ここ4・5年科研費の大型予算を獲得。大規模な研究プロジェクトリーダーになった。北京と江西財経大学の訪問。ユーロリージョン研究、東欧の日系多国籍企業の調査研究とドイツ・ハレー経済研究所との交流、東欧の生産アーキテクチャの半世紀の長期的変動の研究。今年は旧ソ連型の生産システムについて「闇の労働システム」論の新説を出した。

✗ブダペストには毎年、時には年2回調査旅行。長期滞在は2007年サバティカルイヤー。10カ月ブダペスト、2カ月を英国のサセックス大学。熱波の年。トヨタ生産方式で注目される日本の擦り合わせ型生産アーキテクチャが否定的な形で旧共産圏にあったのではないかという仮説で研究。生産現場に行かないと研究が難しい。EU統合の研究も。

✗高知大学でもまた立命館大学でも教職員組合の役職を引き受けた。システム転換、流動化する社会、展望が見えない社会のなかで、何を頼りにして生きていくのか。労働の現場で生き生きと働くことのできる制度を支えることが大事だと思っている。

まとめ
様々な皆さんに助けられてここまでこられた。めぐり合わせの幸運と好奇心が今の私を育てた。

プロフィール
田中宏。1951年生まれ、70年大阪外大ロシア語に入学、6年かけてようやく卒業。京都大学大学院に進学し、この間にポーランド・ワルシャワ大学に留学。戦争状態という名の戒厳令を体験。帰国後、高知大学人文学部に就職するが、研究対象をポーランドからハンガリーに移す。その研究途上、国家社会主義から資本主義への体制転換を経験。外務省に出向してブダペストの日本大使館に2年勤務。帰国後、数年間地方国立大学の大学改革に関与してきたが、2000年に立命館大学経済学部(琵琶湖草津キャンパス)に移る。







以 上









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