事務局より
外大卒業生ならではの、貴重な東欧での勤務経験をじっくりとお聞かせいただくとともに、2月の思いもかけない交通事故の災難を一部始終お聞かせいただきました。また、ご近所付き合いを大事にするこれからの過ごし方の重要さを伺いました。最後に、事故の後遺症の不安を吐露され、参加者一同あらためて交通事故のおそろしさを思い知ることになりました。事故にめげず、日々ますます輝かれることをお祈りします。
武藤 誠四郎さん(3期)


東欧地獄極楽物語
ワルシャワ、ソフィアに在勤して
    

大阪生まれの大阪育ち。まもなく74歳になる。24歳の時に大阪を離れもう50年。このような席でないと大阪弁はしゃべらない。女房も子どもも東京標準語である。まず第一部として標題の内容について口述原稿を用意したので、私の中途半端な標準語で読みあげる。
私は腕時計とネクタイをしない生活を始めて15年ほどになります。今は携帯が時計代わりです。今回の割り当て時間90分を管理するため、終了15分前に目覚ましをセットしますので、序でに皆様を起こしてさしあげます。どうぞ安心して1時間あまり、ごゆっくりお休みください。事務局も時間管理はおまかせください。

演題を「東欧地獄極楽物語」としましたが、東欧における地獄・極楽体験だけだと間がもたないし、フォーラム事務局から自身のプロフィールめいたものを卒業後、現在も含めて、話のどこかで紹介するように仰せつかっておりますので、地獄・極楽にはまり込むまでの道筋で節目になるようなトピックスについても触れておきたいと思います。事務局からお配りいただいているレジュメと“私のプロフィール”も参考にしてお聞きください。
昭和39(1964)年にロシア語科・ワンゲル3期生として大阪外大を卒業しました。“ロシア語卒”を大いにフィーチャーして卒業後の人生を熱く語れればよいのですが、ちゃらんぽらんな4年間でしたのでそんなに格好良くは参りません。阿倍野高校在学中は大学への進学をやめて早く一人立ちしたいとか、将来の夢とか希望とかを具体的に心に描くわけでもなく、末っ子で兄姉が薦めてくれるまま、ただ何となく大学へ進もうとしていました。私学へ行くほどのお金がなかったので公立へ、かといって数学ができないので一期校は難しい、数学のウエイトが低いから外大だ、アジア系語科では飯を食っていくのが難しそうだから西洋語系で、その中でも競争率の低い学科をと、消去法でロシア語科を受験することになりました。まじめに外大を狙ったひとから怒られそうな話です。案の定2年間無駄飯を食いました。そしてやっとこさロシア語科を卒業しました。2年生のときにガガーリンが初めて宇宙に飛んだときにちょっと幸せを感じた程度で、結局どっちつかずの学生生活のまま無理やり社会に放り出されました。


差し当たって就職しなければなりません。遠い親戚にハルビン大学でロシア語を専攻し、戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された人がいました。山本さんという人で、兄嫁の妹婿にあたります。ロシア語の下地があり、そこに過酷な収容所での血みどろの折衝体験を重ねた苦労人で、べらんめえ調のロシア語とでもいうのでしょうか、若いロシア人も驚くほどの汚い言葉をも駆使できるロシア語の大家でした。その山本さんが親戚にロシア語を学んでいる若者がいると聞き及び、実家に私を訪ねてきたのです。4年になる前の春休みのこと、ザック担いで家に帰るとその山本さんが出迎えてくれました。この出会いが縁で、山本さんが勤務していた商社に誘い込まれるようにして就職します。明和産業といいます。4年生の夏休みに入って数日後、明和の東京本社で入社試験を受けました。筆記試験はロシア語だけ、そのあと面接。当日夕刻には内定。今では考えられないほどの手軽さでした。就職難の今を思えばとてもラッキー!でした。
社会人のスタートは東京から。四月一日の入社式前日くらいにロシア語科のクラスメートでワンゲル同期の安隨君と二人で大阪駅を発つ列車に乗ったことを鮮明に覚えています。
入社から1年9ヶ月後の1966年(昭和41年)1月1日付けで三菱商事に転籍となります。ソ連・東欧取引関係者全員が転籍になりました。同期入社した15名くらいの中、東京外語ロシア語科出身の人と私の2名が転籍となりました。当時は転籍については特段の感慨はいだいていませんでした。明和と商事の給与体系は全く同じで、商事の偉いさんの子息は明和に入るのがその頃の縁故入社でした。が、この転籍が実はとてもラッキー!なことになったのです。転籍後、暫くは明和の同期会にも呼ばれていましたが、そのうちにボーナスに両社間で差が生じ、そのあと給与体系も変わることになり、同期会に呼ばれても給料の話はし辛くなり、いつしか会にも呼ばれなくなってしまいました。



山本さんとの出会いが社会人としてのわが人生の方向を決することになりました。わが人生の恩人です。その人との出会いがなかりせばどんな人生をおくることになったやら・・・外大経由の求人募集に応募して大阪の某三流商社を受験するつもりでいましたので、一応商社マンとして大阪でデビューしていたかもしれません。大阪の美女と結婚して・・・資産家の娘をたぶらかして逆玉の輿に乗っていたかもなどと想像すると結構楽しいものです。
明和産業は当時貿易取引では三菱商事のダミーでした。三菱商事名義ではソ連・東欧等社会主義諸国とは貿易取引はしていませんでした。入社した頃はGHQの財閥解体令は解除されていましたが、旧財閥の名義で商売をすることは憚られていたようです。ソ連はフルシチョフが失脚し、ブレジネフ・コスイギン主導の社会に移行にしていましたが、それで日ソ貿易に春風が吹いたわけではなく、日本の商社がソ連の意図を汲み取って取引を活性化させ、日本側の輸入を中心に両国の貿易がだんだん増えていったというのが実情で、ダミー名義の契約にしなくてもよいのではないかというムードが出てきました。というよりもソ連側が三井・三菱と直接取引をしたいという気持ちをいだきはじめたようです。ダミー経由だと“隔靴掻痒の感がある”というのがソ連側の本音だったと思われます。
卒論を書いていた頃の日ソ貿易額は往復で精々数千万ドルでしたが、日ソ貿易は早晩往復で10億ドルになるというのが卒論での私の主張でした。主任教授には「とんでもない、そんなに伸びる訳がない」と軽くいなされたものですが、実際は外務省のデータでは1972年(昭和47)には往復10億ドルを突破しています。ソ連時代の終わり頃が50億ドル程度、ロシアになってからも漸増し、現在は300億ドルといったところでしょうか。
というような訳で三菱商事のソ連貿易スペシャリストとして生きていく運命を背負わされ、5年に一度モスクワで開催される日本産業見本市には入社翌年の1965年7月から10月の3ヶ月間、そして1970年と75年の夏場にそれぞれ1ヶ月間の出張をするなど、自分で自分を“ソ連馬鹿”と定義していた程にソ連向け輸出一筋の仕事を14年間ほど担当していました。
そろそろ地獄へ向かって舵を切ります。
よく耳にする言葉ですが、ロシア人は個人としては大らかで人柄がよく、憎めない人たちですが、体制下のロシア人はむかつくもので、そういう人たちに四六時中囲まれた生活を強いられるモスクワ駐在を好き好んでやってやろうという人は殆どおらず、年功序列の関係から、そろそろ俺にお鉢が回って来そうと、首を洗って待つという雰囲気で仕事していました。しかし業界には別の風も吹き始めていました。
71年のニクソンショックから1ドル360円から308円に切り上げられ、これも1973年までと長続きせず、遂に変動相場制へ移行することとなり、その後もじりじりと円高が進行するなかで、1978年にはイラン情勢がいっぱいいっぱいになってきました。その結果、石油価格が高騰し、日本の輸出産業への影響必至と思われた中で、「いつまでも輸出馬鹿でいてもいいのか」という思いに捉われるようになりました。


1978年の夏の暑い盛りの頃、わが部長だけの裁量で決まる人事にさっと手を挙げました。恐怖のモスクワから脱出するチャンスです。三菱商事の三原事務所・機械課への転勤話です。広島はその前に1年間、広島市内の三菱重工・広島精機製作所へ家族帯同で長期出張した経験がありますし、ロシア人をつれて何度か出張していますので、三原もまんざら知らぬ土地ではありません。部長からは即OKが出ましたが、家内の意向も確認の上、明日改めて返事しますということで、翌日、部長に再確認の“イエス”を申し出ようとしたところ、部長が機先を制して、「昨日の話は無かったことにしてくれ。ワルシャワに行ってくれ」との命令です。そんな馬鹿な!
時間は少し溯ってその年の5月、ワルシャワ事務所長が風邪を拗らせて一週間ほどで他界しています。まるで交通事故です。その人は扁桃腺の持病があり、疲れると発症します。機械出身駐在員1名減員となって間もない頃で、ゴールデンウイーク前の来客ラッシュ、所長自ら買って出てのセメントプラント売り込みミッションのアテンドに追われて、疲労が溜まっていたそうです。何時もより回復が悪く、念の為、近くの病院で診てもらった。喉の細胞を検査摘出。しかし、あろうことか、ピンセットの消毒不良で炎症が急速に悪化したのです。最終的な死因は”敗血症”とのことでした。
東欧は教育環境や医療環境の悪さ、あるいは交通事故多発など、駐在員にとってとても生活環境の悪いところなので評判が悪く、この事件で東欧の悪評は更に業界に知れ渡るようになりました。当時ワルシャワ駐在員は4名で、内3名が機械出身でしたが、円高の影響もあったのでしょう、3名が2名に減員になっています。その煽りで、3月頃にワルシャワ駐在を終えて帰国していた、私と同じ部(一般機械部)出身の某氏が人事部に提出する“帰国レポート”で「ポーランド語のわかる駐在員、それが無理ならせめてロシア語のわかる人間を配置すべきだ」と訴えていたことがわかりました。レポートした本人からそう聞きました。「例えばMr.ムトウみたいな人・・・」と書いたと、得意気にぬかすのです。所長が急逝したときにこうなるだろうと予想していたそうです。その所長の後任というか補充の人事がわが部長も知らない間に人事部で進行していたのです。彼のふざけたレポートが決め手になったのかもしれません。
以上が国内転勤から一転海外赴任になった経緯です。これが地獄に向かうきっかけですから、ラッキー!といえるかどうか。でも、国内商売への転出は果たせませんでしたが、恐怖のモスクワから脱出するきっかけになったのですから、三番目のラッキー!としておきましょう。事実、その後は担当テリトリーとしてのモスクワは付いてまわりますが、One Of Themとなり、西ヨーロッパビジネスへ向かうきっかけとなったのですから大いにラッキーだったと考えるようにしています。
斯くして、1978(昭和53)年10月、ローマ法王・ヨハネ・パウロ二世の就任と同じ頃にワルシャワに向かいます。羽田に向かうタクシーの中でポーランド出身の法王が誕生したというニュースを聞いてホゥオー!と思いながら、機上の人となり、東欧統括場所のあるウイーンを目指しました。ウイーン事務所に立ち寄った翌日、ワルシャワに向かうOSの機中でファーストクラスのお客が私に席を代わってほしいと言ってきました。こちらに否やはありません。最初で最後のファースト体験でした。隣には私よりやや若そうな日本人が座っていました。聞いてみるとオーストリア日本大使館のアタッシェとのこと。ファーストクラスで日本人が隣り合わせるなんて奇遇だなぁなどと思っていると、カーテンの向こうのエコノミー席で大声が飛び交いはじめ何か盛り上がっている様子。1時間程のフライトが終わる頃、一斉に大きな拍手が沸き起こりました。何事かとスチュアーデスさんに聞いてみると「近隣諸国在住のポーランド人が“われらがポップ”の誕生を祝うため祖国に集まり始め、機内で早くも祝賀会が始まった」とのことでした。カーテン越しでは会合に参加できないので、格落ちでも席を移りたがったのだと合点が行った次第です。いくら大使館員が偉いといっても平の書記官がファーストクラスに乗れるなんてことはありえません。隣のアタッシェさんもエコノミーから移動させられたのでした。
地獄のエピソードを列挙します。
ロシア語地獄
“帰国レポート”に「例えばMr.ムトウみたいな人・・・」と書いた人の発想は「ポーランド人職員が事務所でこれみよがしに喋っていてもさっぱり分からない。よからぬことを話しているようだが」という疑心暗鬼に囚われていたからのようでした。私の着任でよからぬ話はやまったのかどうかはわかりませんが、そんな発想ではうまくいく筈がないと思っていましたし、所長に昇格した化学品出身の先輩もひっちゃかめっちゃかに明るく・面白おかしく立ち向かう人でしたから、現地スタッフの言動をご注進に及ぶ必要なんぞは毛頭ありませんでした。ロシア語の必要はゼロでした。ゼロどころか、ポーランド人とロシア人は歴史的に犬猿の仲ですので、威張り腐ってロシア語を話そうものなら半殺しの目にあいそうです。ポーランド語とロシア語は4割くらい共通といわれており、若いポーランド人はロシア語教育も受けています。当方はロシア語の素養ありですので、ポーランド語を覚えるのも比較的早く、ある時、覚えたてのポーランド語を駆使してワルシャワ大学の岡崎先生(現在もワルシャワ大学教授をしておられ、NHKのラジオ深夜便のレポーター)に電話してみると、電話交換嬢から「プローシェ」ではなく、「パジャールスタ」と返ってきました。「承知しました」のロシヤ語版です。ロシア訛りのポーランド語にたいする強烈な皮肉。ソ連というか、ロシアがこれほどまでに嫌われているのか!と実感できる地獄体験でした。
ウオッカ地獄
ポーランドとロシアのゆがみあいはアルコールでも同じです。お互いスラヴ人種で、主食はジャガイモか黒パンです。いずれもウオッカの原料で、いまだに元祖争いをやっているようです。私はどちらのウオッカもやっていますので知っていますが、正直申して、たいしたことはありません。やくざな飲みもので、無理矢理甲乙をつけるほどのものではありません。それよりも私にとってはウオッカとの出会いが運命的でした。元来飲めない体質なのに無理やり乾杯!させられているうちに、だんだん脳が洗脳されていき、「俺は結構飲める口だったんだ!」と自惚れはじめ、酔っ払ってはアルコール賛歌をがなりたてるようになっていきました。その間、胃袋が劣化していっているとも気づかず、胃潰瘍・舌癌・胃癌へと繋がっていくことも知らずにいたのです。
食料地獄
世界の社会主義システムは私の胃袋以上に劣化が進んでおり、ポーランドも例外ではありませんでした。その皺寄せは地方の人へというよりも都会の庶民の食生活に及んで来ていました。国は石炭をソ連に貢ぎ、見返りに肉を恵んでもらうほどに庶民の生活は行き詰っていました。缶詰や嗜好品・こどものおやつ程度ならドルを使って西側から取り寄せることもできますが、新鮮な肉・サカナ・野菜はカネを積んでも入手困難でした。こどもを抱える駐在員の妻たち共通の困難でした。今の北朝鮮がそうなのでしょうが、都会への分け前は一部エリートにしか渡りません。外交官専用のショップにはお肉がどっさり置いてありますが、外交官パスを提示しなければ店には入れてもらえません。されど、母は強し!闇ドルはオフィシャルレートの10倍とか20倍とか、具体的には忘れましたが、そんなズロッチに肉屋の親父は興味がありません。何といってもグリーンです。1ドル紙幣を握り締めて、にっこり笑って親父と握手をします。日本人外交官婦人がいなければ相手もにっこり微笑んで扉を大開きにしてくれ、マルコー価格のズロッチ払いで肉が手に入ります。やばいときはめくばせが返ってきますので、1ドルを握り取られたまま素通りしなければなりません。月に2-3度でしょうか、こうして買い物籠いっぱいの肉をゲットできたのですが、その都度、家内の心臓はバクバクしていたと今も言います。民間の主婦連は外国人妻と情報交換できています。アメリカ大使館では民間駐在員の分も面倒みてくれていたようです。日本の官民格差は内外問わず今も相当あるようですが、当時はもっとえげつないものでした。“決まりは決まり”と筋を通さなければ気の済まない国民性の厄介な一面なのでしょう。
一家離散地獄
私の駐在期間はご存知、レフ・ワレサの連帯騒動の時期と被っています。当時、三菱商事の欧州統括場所はベルギー・ブラッセルにありました。騒動のなかで、家族は一度はブラッセルに強制避難させられました。この時は一週間ほどで戻れました。日当付きの出張扱い、しかもブラッセルの同僚婦人の手厚い介護つきで、家内やこどもたちにとっては大名旅行みたいなものだった筈です。その次の避難は1981年の12月でした。連帯は突っ張る。ソ連軍の戦車は飢えた野良猫同然、よだれをたらして国境線で勢ぞろい。連帯をのさばらせておけばソ連の軍事介入を受けるだけです。連帯かタンクか、進退窮まったヤルゼルスキー将軍は已む無く”わが国は内戦状態にある”として"State of War"を宣言し、戒厳令を敷いたのです。1956年、ワルシャワ条約機構軍のブダペスト侵攻、これは世に言うハンガリー動乱です。1968年のチェコ事件、世に言うプラハの春と、第二次世界大戦終結後ほぼ12年刻みで東欧に亀裂が走ります。チェコ事件の12年後の1980年には独立自主管理労組・連帯の誕生に象徴される大きなうねりが弥が上にも東欧の緊張を高めました。その翌年に戒厳令が敷かれて、かろうじて平穏が保たれたのです。ワルシャワ条約機構の盟主、ソ連とその軍が背後の恐怖として暗躍する構図は3つの事件に共通しています。
時は1981年12月13日。その日はいつも通りの午前様、でも幸い日曜日、朝寝をまどろむ夢現。雪が降りしきる中を会社の運転手が血相を変えて駆けつけてくれました。「深夜に’Stan Wojenny’が発せられ、夜間外出禁止令が出された。戦車は国境に並んでおり、一時間もあればここに来れる。一歩も外にでるな」と申し置いてどこかへ消えました。昨夜は某ビジネスパートナーの誕生祝で仲間たちと楽しく時をすごし、戒厳令などつゆ知らず、ご機嫌の千鳥足でご帰還だったのに!一人はお開き前に空港に出向き帰国の途についた筈だが、無事出国できたのか!
連日、日の丸つきの会社の車で自宅・大使館を送迎してもらい、情報交換・情勢分析・対応策の協議で明け暮れました。結論は「邦人は早急に国外脱出せよ」でした。当時、新任のわがワルシャワ事務所長は日本人商工会の会長をしており、奥方のみ帯同していました。当方は家内と長男11歳、長女7歳という家族構成です。「会長会社は率先垂範せねばなるまい。まずはお前の家族をウイーンに脱出させろ」というのが次席たる私への所長命令で、日本人会としての最初のアクションでした。12月22日夕刻6時、豆電球だけの薄暗い一等車の車両にはほかに相客はおらず、乗客は家族3人だけ。いやがる家族を無理やり定員6名の広いコンパートメントに押し込んだ形で、ウイーン行き国際列車ショパン号はワルシャワ中央駅を発って行きました。途中、列車はクラコフ製鉄所の敷地内を通ります。その製鉄所の酸素貯蔵タンクにはダイナマイトが仕掛けられたという現地紙報道も耳にしていましたが、家内には伝えず、胸の張り裂ける思いで家族を見送りました。幸い翌朝になっても”タンク爆破”のニュースは伝わらず、無事家族はウイーンに着いたのだろうと思えた次第です。90%がカトリック信者のポーランドですので、連帯側もクリスマスを控えての暴挙は慎んだものと思われます。空港・道路封鎖の戒厳令下では東西唯一の架け橋だったショパン号を連日ウイーン駅のプラットフォームで待ち受けた記者たちの前にやっと脱出家族第一号が現れたというわけです。24日朝刊に読売・毎日・朝日が私の家族脱出の様子を報じています(当時の読売新聞記事)。私は同じショパン号で12月31日に家族と合流、それまでにほかの邦人家族もほぼ全員が同じルートでウイーンに脱出しました。ウイーンへの脱出は子供たちにとってワルシャワ日本人学校の仲間とも一緒に過ごせる、暖かで超安全・豪華なクリスマスプレゼント兼お年玉となりましたが、結局、翌年1月5日に家族は身ひとつで成田へ、私はショパン号でワルシャワに戻りました。その後、4ヶ月ほども国際電話が通じず、テレックスの鑽孔テープの山を抱えてワルシャワとウイーンの間をショパン号で週2回ほど、往復することになりました。ポーランドとチェコの国境では未明にパスポートコントロールを受けますが、チェコ側の警備兵とすっかりお友達になり、「ヤーヤーまたお前か!」とばかりに指が千切れんばかりの握手攻め、そして私からの振る舞い酒、仕事はそっちのけのようでした。
地獄編の東欧を概括するとすれば、12年刻みの騒動が起きるのが早い国ほど民主化されるのも早かったようです。ハンガリー、チェコ、ポーランドの順です。東独やブルガリア・ルーマニアの民主化は更にずれ込み、ソ連がフィナーレを飾ることになります。東欧色は薄く、ワルシャワ条約機構には加盟していなかった、天才チトーのユーゴスラヴィアはその頃はまだ不動の構えのようにも見えましたが、90年代はじめの内戦を経て連邦が瓦解してしまったのはみなさんご存知のとおりです。言い換えれば、地理的にも文化面でも古き良き西ヨーロッパの影響を強く受けていた国ほどソ連の統制をきらっており、その分早く抑圧を跳ね返したということでしょう。いま旅行してもドイツになった東独を除いて、この3ケ国はその他の、元社会主義の東欧よりも数段居心地は良い国になっているのではないかと想像しています。
閻魔さんの御沙汰も無事クリアーしましたので、この辺で極楽へ向かいます。
三菱商事は単身赴任を推奨していません。小学5年でワルシャワから逃げ戻った息子も18歳、大学生になっていました。“そろそろ危ないかな”の予感が的中しました。1989年の秋、10月にブルガリアのソフィアへ転勤命令が出されました。11月に入り、出身部局の送別ゴルフを楽しんだ日の夕刻、ベルリンの壁によじ登りハンマーで壊して絶叫する大衆の映像がテレビを独占していました。12月も押し迫った頃、ルーマニアの独裁者・チャウシェスク大統領夫妻が公開銃殺刑に処された生々しい映像が届きました。年が明けて2月、赴任前社内打ち合わせで国内主要場所の旅を終えて、ソフィアに赴任しました。
地獄めぐりの再開かとお思いでしょうが、ソ連もゴルバチョフのペレストロイカが浸透し、民族問題(チェチェン)は別として、体制は緩みはじめていました。ベルリンの壁の崩壊とルーマニアの独裁者の処刑で世の中はだいたい一段落、わがブルガリアも既に血をみる騒ぎなしに、新しい指導者が支配する社会となり、手探りの民主化が始まっていました。
が、あちらこちらでつまずき、よろけるだけで、経済は置いてけ堀でした。どっかの国のついこの間までの政権そのままです。赴任した頃は1億ドルのスフ綿プラント商談を最終的に纏め上げる任務を帯びていました。ある時、輸銀融資が下りたとの朗報が本社から舞い込んだものの、同じ日に、ブルガリア政府はモラトリアムを発し、対外債務不履行(デフォルト)にしてしまったのです。カネを貸すどころの話ではありません。1億ドルプロジェクトは夢か霞のように消えてしまったのです。そんな環境では仕事に情熱を傾けよと言われてもそうはいきません。仕事がないのです。元来怠け者の私に天の恵みで極楽が降って湧いてきたようなものです。それでも2年間、懸命に仕事をさがす振りをしていましたが、事務所の会計は私の経費だけが突出して目立つようになっていました。幸い現地採用の、私より二つ年下の古手日本人職員が極めて優秀、且つ信頼できる人物で、更にソフィア在住の若手日本人を私の代で採用し、これで本邦からの派遣なしで事務所は軽快に運営できるとの論文を物して、帰国する腹積もりを固めました。結論は「お前の意見は採用するが、お前が悪い訳ではないので、帰さない。ロンドンへ行け」だったのです。本店で私の引き取り手がなかったのかもしれません。何れにせよ、これでいよいよ西ヨーロッパへの窓が開かれたのですから、明らかに四つめのラッキー!です。
ブルガリアでの極楽三昧を列挙します。
所長天国
私がソフィアに赴任して最初にいただいた名刺には“ブルガリア国駐剳特命全権大使”と書いてあります。つまり、天皇陛下の代理というわけです。民間では事務所長といえばたとえ一人場所であっても、天皇陛下ならぬ、社長の代理扱いです。社宅から事務所へは歩いて7-8分、歩いたほうが気分も晴れるのですが、セキュリティー確保の見地から運転手つきのベンツに乗ることを強制されます。250平米くらいのマンションにおばさんながら通いのメイド付き。料理下手の昼食に女房はいささか音を上げていました。50万円ほどもする最新カラオケセットも認めてくれ、休日は単身赴任の野郎共のたまり場になっていました。
ワイン天国
どこの所長さんも仕事がありません。12時きっかりに貿易センタービルを飛び出し、何台かの相乗りで郊外のレストランへ疾走します。たっぷり時間をかけてフルコース並みの昼食、勿論赤・白選り取り見取りです。
転寝天国
冬には背後から西日がたっぷり差し込む一等部屋に女性秘書と二人きりというのが私の日常勤務風景です。その秘書は日本人、独身の美形です。が、変な想像を回らしてはなりません。なんせ、申しましたように、私以外の日本人はしっかり者揃い。秘書嬢も同様でした。ランチを済ませて、二時ごろ事務所に戻って腹いっぱい、ご機嫌のほろ酔いに西日があたってぽかぽか陽気、これで眠くならないほうがおかしい。カタブツ秘書は見て見ぬ振りしながらタイプを叩きますが、居眠りは所長の沽券にかかわります。2時から5時までの3時間は地獄の責め苦にあっていました。しかし、やれやれ5時になると先ずは丸紅の所長さんが来てくれます。古参邦人職員も酒には目がありません。幸い事務所は広く、ほかの所長さんも三々五々集合します。こうしてこの日も所長応接室で放課後の飲み会が始まります。当時の腐れ縁は場所を変えていまも続いています。
円高天国
円高は日本の輸出担当にとって宿敵ながら、海外に在っては天使の微笑みです。盆・暮れの長いお休みではヨーロッパ観光やブランド品ショッピングは格安になります。ワイン天国・居眠り天国・円高天国の3本立ての生活!みなさんは想像できますか?
以下はブルガリアのあとの勤務地となるイギリス、オランダでの生活にも当てはまる、おまけの極楽話です。
円高・パート2
円高はロンドンへ転出したのちも続き、ついに白馬の騎士が登場します。外貨建て一本の給与を円と外貨の二本建てにするという給与規定ができたのです。海外で苦労する社員に為替差損を被らせない制度を導入してくれたのです。住宅手当相当部分だけが勤務地の外貨建て口座に振り込まれ、それ以外は全て円建てで邦銀口座に振込まれます。ロンドンではブルガリア時代とは違って、一兵卒ですから、社宅ではなく、自分でみつけた借家に住まなくてはなりません。これが良かったみたいです。住宅手当として家賃相当を見做しで英ポンドで払って呉れるのですが、だいぶ余裕がありまして、家賃枠から食い物代が結構捻出できました。円口座から取り寄せるのは食費不足分とゴルフ代・旅行代くらいなものでした。3年間、その恩恵に浴しました。私にとって円高はとてもラッキー!だったのです。
引越し天国
ブルガリアは社宅でしたので、フーリーファーニッシュドです。日本からは4年分の衣類・身の回りの品程度をダンボール箱に詰めて飛行機で送りました。幸いロンドンでも家具・食器・家電つきのフラットが見つかりました。やはり引越しはダンボール箱の航空便、9ヶ月後にロンドンからロッテルダムへ転勤となりますが、その時も同じです。最終的にロッテルダムから本邦へ帰国するまでの5年超の間で4回、空の引越しをやりました。その度に転勤支度料が私と家内に支給されるのです。家財道具一式の船便引越しはたいへん手間ひまがかかりますが、ダンボールに詰め込むだけなので楽なものです。支度料は家内の方が多く貰えます。新しい任務に備えて男はスーツを、女は和服でもあつらえろという主旨なのでしょうが、東京からソフィアに転勤する時にまとめて誂えていましたので、それ以降は新調する必要はありませんでした。しかし、会社の決まりですので、支度金の受け取り拒否はできません。貰ってしまえばこちらのものです。現在の住まいの購入代金の一部に化けてしまって、今は跡形もありませんが。
以上、ワルシャワでの地獄とブルガリアでの極楽エピソードを私生活面から捉えてご紹介してきましたが、仕事面からは取立ててお話するようなことはありません。ポーランドで戒厳令、ブルガリアではモラトリアムという不幸にぶちあたってしまい、目ぼしい仕事がなくなったからです。誰でも経験できるものではありません。ポーランドでもブルガリアでもひょっとして私に取り憑いていた貧乏神が乗り移って足を引っ張ったのではないかとマジで考え込んだことあります。
そんなこんなで、私のサラリーマン人生は自分の意思で思う存分開拓したということではなく、ただただ会社事情の成り行き任せでありましたが、1番から5番までのラッキー!に支えられて、なんとか円満に収束出来たと申せます。それもこれもただ何となく外大に入学できたからです。そのお蔭でこうして皆様とも知り合いになれたのですから、これこそが最大のラッキー!だったと申せましょう。
ワンゲル万歳!
次は、第二部として「交通事故全治二週間の謎」と題して自身の事故の報告をさせていただく。
2月8日はとくに寒い日であった。その日も一日おきの1時間半ばかり(8~9km)のウオーキングをしていた。1時間経った頃、T字路を緑信号で横断中に右折車に跳ね飛ばされた。一瞬何か来たな、という印象しか残ってない。救急車のストレッチャーに乗せられ運び込まれようとしたときに意識が戻った。救急隊員に寒い、寒いと訴えた。冷たい舗装道路に15分ほど寝かされていたはずである。相手の車は対向車に右折を譲られ、交差点通過を急いだようである。また、冬の3時頃、西日がまぶしくて私に気づかなかったのかもしれない。車の運転手側のミラーと私の身体が当たった。前照灯のプラスチックは割れていたそうである。
救急病院に運ばれ、全身の検査を受けた。4~5時間かかったであろう。幸いなことに、頭、目、口の中は大丈夫。ただ、頬骨骨折。肩、腰、足にいくつか傷ができた。一番ひどかったのは首。診断書によれば、「頸椎捻挫、擦過傷」、加療は「14□間」という。□がブランクになっており、書き忘れたのか、何とも不思議な診断書であった。おそらく「14日間」ということであろう。しかし、14日間で完治するわけではなく、明日には何が起こるかわからない、今も爆弾をかかえた状況である(傷の経過写真16枚にて説明。写真割愛)。
写真でもわかるように確かに2週間ほどで大きな外傷は回復してきた。16日でガーゼは取れたがまだ外出ははばかられた。80日でほほ現在の状況になった。頬骨骨折は食事の咀嚼に少し難があった程度で大したことはなかった。よく耳にする全治1か月、2か月の重傷というのはよほどの怪我であり、後遺症もさけられない。



最後に、「健康おたく」についてお話ししたい。
第一部でご紹介したように、私は胃潰瘍、舌がん、胃がんをやっている。胃がんは二回。おかげさまで「健康おたく」になった。
会社をやめて13・4年。ワンゲルOBの行事には必ず出席することをモットーにしている。あと4・5年も経つと、都心にも行けなくなる。近所に友達がおれば交流が保てる。ご近所づきあいを最優先でやっている。月2・3回の料理教室。そば打ち教室。そば打ちは、家でもやるが奥行が深い。はじめて3年くらいになる。教室ではもう古だぬきであるが、最初はゆがいてもブツブツに切れた。今は、十分に長いものが打てる。20回、30回やるとうまくできるようになる。そば粉のいいのをネットで探して仕入れ、打ち、味合うのが楽しみである。
そんな友達と月1回カラオケ教室。昼から午後3時頃までカラオケ店で飲み食いする。彼らとゴルフに行ったり、毎月3,000円積み立て年に1回、我らなりに豪華な旅をする。この間は茨城県の鵜の岬まで出かけ評判の国民宿舎に一泊した。総勢12名。
これからはこのようなご近所付き合いも、ワンゲル仲間とは違った意味で重要ではないかと思っている。
最後に私の爆弾について一言。若い人は通常、硬膜とくも膜の間に隙間がない。加齢とともに、脳が委縮しこの間に隙間ができる。認知症の一因である。私は、慢性硬膜下血腫。事故の影響でこの隙間に少しずつ血腫がたまっていく。事故から1か月、2か月後のCTスキャンを診ると血腫が増えている。医者に言わせると「想定どおり、順調に増えている」そうである。今、60ccほどたまっており、徐々に脳を圧迫していく。120㏄ほど溜まったケースもあるらしいが、これ以上増えてほしくない。増えていくと、脳梗塞のような症状がゆっくりと現れる。右脳に血腫があるから、左手、左足にしびれや麻痺症状がでるらしい。ところがまずいことに鞭打ち症で左腕がすでにしびれている。しびれ止めの薬(ビタミン12)を服用しているが利いているという実感はない。しびれの後には麻痺が出るという。血腫による圧迫とともに、脳梗塞を起こしていることも万一あり得るので、医者から、そのような場合には遠方の外出先であればそこの医療施設に行くようにアドバイスを受けている。というわけで、交通事故は本当に馬鹿にならない。手仕舞いをきれいさっぱりやってさっさと済ませたいという気持ちもあるが、事故経験者にいわせると急ぐことはない、のらりくらりと医者にかかっておいたほうが賢明ということらしい。このような自身の写真を見ながら、どのような手を打てばよいか考えている毎日である。
以  上









inserted by FC2 system