事務局より
2013年8月28日から9月9日、1期の田中氏、加納氏、4期多田氏の、フランス語科出身3人で、フランスを旅行されました。三人三様、それぞれに旅行目的を携えての訪仏。現地では、パリ在住の1期浦田氏とも合流し、充実の時間を過ごされました。予期せぬハプニングの話も交えながら、今回は、多田氏、加納氏にお話いただきました。
前半語り手【多田 正俊さん(4期)】

「 2013 フランス旅行報告」
    

はじめに:
今回のフランス旅行を計画したのは、20013年1月、甲子園のホテルで行われたワンゲルOB会(シニアグループ)の新年会の時だった。パリから浦田良一さんが参加されていた。
浦田さんがパリに滞在中にフランスを訪ねたいとの希望がフランス語科出身の田中健次さん、加納巌さんと私の間で以前から出ていた。田中さんはナポレオンの戦跡を訪ねるため、この機会にイタリア訪問を強く望んでいた。
ところが、それまで多田家の飼い犬(柴犬、オス)が18歳となり介護が必要となっていたため、長期間、留守にすることができなかった。愛犬は2012年7月に“天寿”をまっとうしたため、フランス旅行のチャンスがやっとめぐってきた。
4人は旅行に合意し、浦田さんから「ぜひ、そろって来てください」と歓迎された。夏場あたりがいい、ということで、2月にさっそくエールフランスの関空―パリ便の座席をネット予約し、運賃の払い込みを終えた。以下、日程ごとに雑感をまとめた。


50年ぶりのパリ:
8月28日(水)午前11時30分、パリ行のエールフランス291便が関西空港を予定通り、離陸。この日、夏のピーク運賃から、オフシーズンの料金に変わるためか、ほぼ満席(2月の予約時に満席状態だった)。約12時間のフライト後、パリのシャルル・ドゴール空港に到着し、浦田さんの出迎えを受けた。現地時間、午後5時まえ。さっそく、パリの中心部、オペラ座近くのホテル(Caumartin Opera)にチェックインした。

歩いてすぐのレストランでビールとワインで乾杯。何を食べたか思い出せないが、浦田さんに注文してもらったフランス料理がテーブルに並べられ、おいしくいただいた。(気のきいたレストランでは、フランス語メニューには英語も併記されているが、フランス語だけでは、どんな料理が出てくるか想像もできない。この界隈のレストランの入り口には“日本語メニュー”ありますと書かれているところもあった)。元気なウエートレスが盛んに愛想を振りまいて、親近感あふれる接客態度。精算前に加納さんが、Quell age avez vous ?(年齢は?)と聞いた。もちろん聞く前にわれわれの年齢を話していた。彼女は正直に76歳と答えてくれ、びっくりした。50代後半から60代と思っていた。これ以降、加納さんはレストランなどで女性を見るとこの質問がお決まりとなった。

私にとっては、ほぼ50年ぶり(正確には47年ぶり)のフランス訪問となった。1965年(昭和40年)の卒業後、すぐにアメリカに渡り、アルバイトでかせいだお金をもとに、世界一周の旅に出た。年をまたいだ翌年、ニューヨークからアイスランド経由でイギリスのスコットランドに飛び、そこから鉄道、バス、ヒッチハイクでフランスのマルセーユまでたどり着き、貨客船で神戸に帰ってきた。

パリへはベルギーとの国境を歩いて渡り、フランス側の鉄道駅から列車で入った。これを書くために資料を探したら、エッフェル塔を背景にした写真、地下鉄の切符、ルーブル美術館の半券(4フランと記されている)、そして、1966年1月25日のOpera-ComiqueのSoire(夜の部)の半券も出てきた。なつかい限りだ。パリの中心街の風景は当時の写真を見る限り、いまとほとんど変わっていない印象を受ける。オペラ座界隈もかつてのままだ。でも、パリ近郊の一角には高層ビルがそびえ、時代が確実に変わっている。

早朝散歩:
 8月29日(木)朝早く目がさめてしまったので、散歩に出かけることにした。5時半すぎにホテルを出た。大阪ではもう日が昇っているはずなのにまだ薄暗い。地図では南に進むと、セーヌ川が見えるはずだ。朝食は7時30分だから、それまでに戻ればいい。この時間、大通りは車が走っているが、裏通りでは人影はまばら。明かりがついたビルで働いているのは、あっちでもこっちでもほとんど黒人の清掃作業員だ。大きな鉄製のごみ容器を表に出して人もいる。黙々と働いている。パリの朝を支えているのは黒人労働者だ。

銀行や官庁、商店などのビルを抜けると、コンコルド広場に出る。ここから西側の広い通りが凱旋門に向かうシャンゼリゼだ。両側に明かりが延々と輝いているのが見える。静まった夜明け前の風景だ。広場に面しているのがチュイルリー公園。公園を入った右側にオランジュリー美術館。公園のずっと奥(東側)、地下鉄で一駅ほど行ったところにルーブル美術館があるはずだ。
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チュイルリー公園の西端の入り口付近を歩いている。この時間、公園の入り口は長い柵で閉じられていた。その時、いきなり巨大な犬に中から吠えられ、驚いた=写真。なんと犬が門番をさせられていたのだ。すぐそばにセーヌ川。パリに来た実感がわいてくる。河畔をランニングする人の数が増えたようだ。まだ30分そこそこしか歩いていない。でもホテルに戻ろう。

別の道を引き返して歩くと、レストランが開いており、カウンターでコーヒーを飲んでいる人の姿が見えた。エイ、ヤーとばかり入って、カウンターの主人に「Bon Jour, Monsieur!」とあいさつ。常連客ばかりのようで、少し違和感があったが、「un cafe,s’il vous plait」(コーヒーをください)と注文する。出てきたのは小さなカップのエスプレッソ。常連客はこれを飲みながら話している。勘定。ユーロを初めて使うので、5ユーロ紙幣(紙幣は5ユーロ=約660円=から)を出すとお釣りがきた。

ホテルにはフランス語の新聞しかなかったので、英語の新聞を探すことにした。地下鉄の地上出口にはキオスクがあって、新聞を売っているのだが、早朝なので、どこも閉まっている。大通りの店の前で落ちたマロニエの葉を掃除している東洋系の男性にフランス語で聞いてみた。「英語の新聞を探している」「どこのキオスクもまだ閉まっている」。男性は「オペラ座の近くにあるはずだ」と教えてくれた。話しているうちに男性は英語を使い始めた。フィリピンから来て、20年以上になり、家族もいるという。フランス国籍を持っている。なるほど。今さら驚くことはないが、フランスにはアフリカ、中近東、東南アジアからの人たちがたくさん移住して、フランス人になっている。キオスクでHerald Tribuneを買った。3ユーロ(約400円=1ユーロ132円換算、以下同じ)もした。朝食時間までにホテルに戻った。


ベルサイユ宮殿:
8月29日(木)の予定は浦田さんにベルサイユ宮殿に案内してもらうこと。朝9時、浦田さんの愛車がホテルに迎えに来てくれた。約1時間。宮殿に入る前に近くの町のマルシェ(市場)を見学。昔の駅舎がマーケットとしてよみがえり、にぎわっている。日本のどこの町でもあった個人経営の商店で、店ごとに店主がいる。肉屋、魚屋、野菜・果物店、香料店、ワインなど酒屋が円形状に並ぶ。市場を巡ると肉屋、魚屋が何店もある。ワインを買って、宮殿へ。



正面入り口から入ると3時間待ちは普通だそうだ。年間400万人が訪ねるという人気スポット。田中さんは何回も来たが、そのたびに待たされてあきらめていたという。宮殿の公園を端から端まで歩くと3キロは超えそう。これほど広大な公園は日本にはないだろう。浦田さんは正面入り口を避け、別の入り口から宮殿内を車で入り(有料)、トリアノン宮殿(ルイ14世の離宮)の駐車場へ。さすが。この宮殿の各部屋を見て回るうちにランチの時間が過ぎている。

敷地内のレストランで昼食をすませ、いよいよベルサイユ宮殿へ。と言っても2キロ以上離れている。歩行がみんなと遅れる田中さんには、とても無理。そこで電気で動く乗り物に乗る(有料)。宮殿の各部屋の説明を読みながら進むと疲れる。どの部屋も同じに見えてくる。ハイライトは鏡の回廊だ。豪華な鏡とシャンデリア。マリー・アントワネットが結婚舞踏会を催し、ベルサイユ条約が結ばれた部屋だ。記念写真を撮って、ベランダに出る。広大な敷地に改めて目を見張る。




電気の乗り物で元のトリアノンに戻るには、長い順番待ち。田中さんと加納さんを残して、浦田さんと私は30分歩いて、駐車場へ。車で宮殿敷地をいったん出て、正面入り口で2人を拾い、マリー・アントワネットが好んで住んだといわれるプティ・トリアノン(私邸の離宮)へ。田中さんは歩行をあきらめ、車内で待機。






古風な家が並ぶ=写真。庭にはニワトリ、クジャクが飼われていた。一帯には広い畑が広がり、ブドウや野菜がいまも植えられていた。池もある。農作業をしていた作業員の家もそのまま残っている。ベルサイユ宮殿に住んでいた人たちは自給自足。この畑で作物を栽培していたという。ここまで足を運ぶ観光客はそう多くはいない。ベルサイユ宮殿の意外な見どころだった。閉門の午後6時に出て、パリに戻った。

夜のエッフェル塔を塔の下から眺めた。赤茶けたイルミネーションは、パリの象徴だ。



マルモッタン美術館:
8月30日(金)浦田さんは所要があり、3人は地下鉄でマルモッタン美術館へ。ホテルのフロントで聞いた通り、オペラ座近くの入り口から切符売り場に。目的地まで1.7ユーロ(224円。市内ならどこへもこの料金)。切符は案内所でも買えるが、ほとんど自動券売機だ。画面には英語も選択できるので助かる。

昔、地下鉄に乗った時を思い出した。当時、ホームは薄暗く、列車がホームに差し掛かると、ホームへの入り口の扉が自動で閉まり、乗客は列車が発車するまでホームには入れなかった。もうこんな扉はない。旅の疲れでいすにもたれて居眠りして、乗り過ごしたことがよくあった。

美術館への地下鉄の途中で行き先を間違えているのに気付き、すぐに降りて反対側の列車に乗り換えたが、乗り換えた駅で3人の男女も降り、われわれと同じ方向の列車の同じ車両に乗り込んできた。あとで、田中さんはスリではないかと怪しんだ。怪しいといえば、確かに怪しい素振りだった。パリの地下鉄は観光客目当てのスリが多いので有名だ。

マルモッタン美術館はパリの“穴場”の美術館だ。地下鉄駅から徒歩10分。閑静な住宅街にある。モネの「睡蓮」など初期から晩年の作品が楽しめる。印象派の始まりとされる「日の出」が展示され、特に晩年、目が見えにくくなった「睡蓮」のシリーズが印象に残った。日本語の音声ガイド(有料)があるので、助かった。

午後は地下鉄でセーヌ河畔へ。クルーズ船でパリの中心部を見よう。晴天で真夏の暑さ。乗車券(12.5ユーロ=1850円)を買って、30分ごとに出る船に。なんと、中国人の団体でびっしり。マナーがよくない。船内トイレを使って、水は流さず、ドアーは開けっ放し、女性が男性用に平気で入ってくる・・・。でも、フランスでは中国人は上得意なんだそうだ。約1時間のクルーズでノートルダム寺院やエッフェル塔の景色を堪能した。




この日の大仕事がある。明日からの浦田・加納と田中・多田は別行動を取るため、荷物を次のホテル(Apart Hotel Citadine Opera Grand)に運んで、預かってもらうことにした。夜に浦田さんに迎えに来てもらって、運んだ。

ミラノへ、そして想定外の出来事:
8月31日(土)―9月3日(火)田中さんの要請で3泊4日のイタリア旅行に同伴することにした。今回の旅行で田中さんの目的の一つはナポレオンの戦跡地めぐりだった。私は浦田さん、加納さんらとフランスの地方を巡ることに決めていて、戦跡地めぐりには関心がなかったが、出発前のある夜に田中さんから「イタリアへ一人で行くのは不安なので、付き合ってほしい」と電話で頼まれた。先輩だから拒否できず、了解した。

31日の朝は早くから行動を起こした。6時にホテルを出て、ドゴール空港に向かった。8:30発ミラノ行のEasyJet2780便に搭乗するためだった。この飛行機はイギリスに本拠を置く格安航空会社。ネットで直接予約した。1か月前にメールでBoarding Passを送ってきた。座席は前部と後部では料金が違うが、少し高めの前席を取った。荷物も預けると料金を取られるので、手荷物だけに。レンタカー、ホテルなどの情報をいやというほど送ってきてくれた。便利そうだ。Boarding Passを持って搭乗ゲートに向かえば、便にのれる。約1時間半の飛行で、8、000円ほど。大手会社の半額に近い。

空港からバスで1時間。ミラノ中央駅に着いた。ホテルは駅から歩いてすぐの場所。チェックインにはまだ早いので、フロントでダ・ビンチの「最後の晩餐」の絵を見たい」と頼んでみた。観光案内書には予約が必要と書かれているのは承知のうえだ。1グループ25人に15分しか鑑賞できない人気の観光スポットと説明されている。行く予定はなかったのだが、イチかバチかということもある。フロントの人は「チケットを専門に扱っている人がいる」と名前と住所を書いてくれた。もしや、と思いタクシーを飛ばした。教えてくれた事務所は、その日、休みだった。がっかり! 仕方なくそのまま作品がある教会(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ)に向かった。教会を見学して、ホテルに帰ることにした。

日本のように流しのタクシーは、まずない。地図では近くに地下鉄の駅がある。歩くことにしたが、田中さんはきつそうだ。なんとか歩いてもらう以外にない。30分かそこらで、駅に着いた。私は先に着いて田中さんを待った。駅に着いた田中さんは、地下に降りる階段を見て「階段は歩けないので、バスで帰ろう」という。道行く人に「ミラノ中央駅行きのバス停はどこか」と英語で聞いた。
4,5人に聞いた。英語もフランス語も通じない。田中さんはつらそうだ。あきらめずにまた聞きまくった。運よく赤ちゃん連れの若い夫婦が英語を話してくれた。「バス停がどこだか知りませんが、地下鉄に乗るんだったらエレベーターがありますよ。案内しましょう」。連れて行ってもらう途中に運よくタクシー乗り場があって、タクシーに乗り込んだ。


 途中、私はイタリア最大のゴシック教会・ドゥーモ=写真=を見るため、下車した。1813年に完成し、高さ100㍍を超える黄金のマリア像がそびえる教会は夕日を一面に浴び、印象的なシルエットを描いていた。内部ではミサの最中。1000人は超える信者が神父(高名な人らしい)の説教に聞き入っていた。神父の画像が多数のテレビモニターに映し出される。説教をひれ伏して聞く信者が目を引いた。
この神父の回りには、これも100人以上の神父が席についており、荘厳な雰囲気に包まれていた。バチカンにローマ法王を抱く国。イタリアに来たと実感した。

9月1日(日)約束通り、朝9時に田中さんが雇ったハイヤーがホテルに迎えに来てくれた。23歳の運転手が英語の通訳を務める妹を連れてきた。行き先は1時間ほどの小さな田舎町・ロディ(Rodi)だった。ナポレオンが戦ったという表示がある短い橋があった。さらに東に進んでガルダ湖畔を巡って、ホテル(Hotel Garden)に着いた。夕食の前に湖畔をひとりでゆったりと散歩した。イタリアでは知られた観光地で、歩く人、ランニングをする人に加え、ボートや空ではパラグライダーを楽しむ人が見られた。そうだ。今日は日曜だったのだ。

9月2日(月)今日も戦跡地めぐり。アルコーレ、カステリオーネという田舎町を訪ねた。アルコーレにはナポレオンを称えたモニュメントと博物館があった。博物館は日曜日だけの開館で、この日は休みだったが、運転手がかけあってくれて、3時にわれわれのために特別に開けてくれるというので、再度、訪ねた。ナポレオンの写真や資料をたくさん集めた博物館がこんな町にあるとは驚きだった。夕方に前日と同じホテルに戻った。

9月3日(火)朝、朝食のために部屋を出ると同時に向かいの部屋から出てきた田中さんと顔を合わせた。
「多田君、ゆうべ、ベッドから落ちて左足を打って、歩けんようになってしもたぁ・・・」。

なんということか。まったく想定外の出来事が発生していた。歩行困難。車いすが必要になる。部屋は2階だったがエレベーターで1階に下り、レストランまでなんとかがまんして歩いてもらって、朝食を取った。この日はパリに帰ることになっている。予定ではマントーヴァの戦跡巡りとヴェローナ観光だ。予定を変更せざるを得ない。浦田さんに出来事を携帯電話で報告した。

ヴェローナの町を車で見て、ランチを取って早めにヴェローナ空港に向かった。この空港は小規模だが国際空港だ。広い駐車場では、どこに車を止めても「SOS」ボタンがある。運転手がSOS電話で「車いすが欲しい」と言うと、しばらくして空港職員が車いすを押して現れた。ロビーまで案内してくれた。予約しているのは17時45分発のエールフランス1171便。受付カウンターが開くのは3時からだという。2時間以上ある。待つしかない。

カウンターが開くと同時にさっきの空港職員が来て、カウンターに案内。われわれは最初のチェックイン客だ。ほかの乗客はまだいない。田中さんは車いすで控えている。対応したエールフランスのスタッフは、私に英語で田中さんの状態について、次々と質問してきた。「歩けなくなった理由」に加え、「心臓に問題はないのか」「脳に問題を起こしたことはないか」「ほかに内臓で病気になったことはないか」。なぜ、そんなことまで聞くの、とその時思ったが、あとで人に聞くと、心臓、脳、内臓などに問題を抱え、万一、飛行中に死亡すると、航空会社の責任になるから、搭乗拒否できる権利があることがわかった。

そして、ここからは、エールフランスのスタッフが車いすを押してくれて搭乗ゲートまで案内。待つよう指示した。さらに2時間近く待って搭乗ゲートにスッタフが来た。ヴェローナ空港にはボーディング・ブリッジがなく、一般客は搭乗機まで歩くことがわかった。

田中さんと付添人の私のために、身体障害者用のトラックが用意され、スタッフが車いすを押して乗った。トラックは飛行機の最後尾の非常用扉の前で止まった。トラックの荷物台がリフト(エレベーター)になっていて上昇。合図で扉が開き、搭乗できた。座席までは歩かなければならない。幸い座席は後方に取ってある。
離陸後は素晴らしい眺めを楽しめた。雪のアルプスが見える。エッフェル塔がはっきり見えるパリ上空の景色。ドゴール空港ではボーディング・ブリッジで空港職員が車いすで迎えてくれた。そのままタクシー乗り場へ。列があったが、ここでも乗車は最優先だった。

病院へ:
9月4日(水)浦田さんが田中さんを連れて、American Hospital of Paris へ。私は付き添いで、まず、病院の案内デスクで「wheelchair(車いす)が欲しい」と頼んだ。英語が通じるので助かる。パリ日本人会の会長の浦田さんはさすがに顔が広い。病院で「あら、浦田さん」と女性の日本人医師が声をかけてきた。


 おかげで、すぐに整形外科医を紹介してもらい、レントゲン検査。外科医は診察して、「帰国後、必ず(MIRの)精密検査を受けること」と指示して、薬を処方してくれた。田中さんには車いすが必要となった=写真(車いすは撮影後、病院に返却)。加納さんは凱旋門見物など別行動。

これより先のApart Hotel Citadine Opera Grandでの出来事。大変だった。2基あるエレベーターのうち1基は前日から故障。もう1基が朝、故障で止まったままになった。6階の部屋から田中さんをどうやってロビーに降ろすすか。難問だった。浦田さんが知恵を出して、フロントと掛け合い「力持ちのスタッフ」を求めた。ほどなく、黒人の大男が現れ、田中さんを抱きかかえてロビーまで階段で運んだ。

病院での診察でほぼ1日つぶれたので、夕方近くにホテルに戻るとエレベーターは故障のまま。宿泊客は重い荷物を抱えて、階段を上る。日本では、こんな場合、「お詫び」の張り紙ぐらいは出るだろう。機械の故障でなぜ、ホテルが謝罪しなければならないのか。このあたりがフランス人の考えらしい。

夜は浦田さんに予約してもらっていたキャバレー「ムーランルージュ」に出かけて、フレンチ・カンカンなど100年以上続くパリならではのショーを楽しんだ。帰りがけに田中さんが階段でひっくり返り、あわてた。

ルーブル・ランスへ:
9月5日(木) 今日はパリのルーブル美術館の別館(日本語では分館と訳されることもある)を見学する予定だ。現地ではル-ブル・ランス(Louvre-Lens)と呼ばれている。パリの北西部の小さな町・ランスにある。もともと炭鉱の町だったが、文化の地方分散政策と跡地利用で人気の美術館に生まれ変わった。浦田さんの運転で大西洋に向けて約1時間以上。少し行けばベルギーだ。
建物は日本人の設計(妹島和代氏と西沢立衛氏のSANAA事務所)で、平屋でガラス張りのシンプルなビルが延びる=写真(手前の浦田さんの背景にビルの一部が見える)。


2012年12月に開館したので、1年間は入館料が無料だった。約250点の作品はルーブル美術館で保管されていたものが移された。

 ルーブル美術館では、作品がコレクションごとに展示されているが、ここでは120㍍の広大なひとつの空間に紀元前の文明の起こりから時代ごとに全作品が展示される新しい手法が取り入れられている。入り口でipadを渡され、表示してある作品番号を入れると、フランス語または英語(2か国語しかない)の説明がイヤホンで流れる。画面で詳しい説明も読める。天井の壁面にどの年代の作品を見ているかがわかるよう西暦年が表示されている。新手法だ。

作品の目玉はドラクロアの巨大な絵画「民衆を導く自由の女神」だ。女神が赤、白、青の3色旗(後にこれが国旗となる)を手に戦う教科書でも見覚えのある絵だ。私はしばし見とれた。(リュックを前にしているのは館の指示。後ろにラインがあり、そこから鑑賞する。写真撮影のため接近している)。




ところで、田中さんだが、駐車場から入り口まで距離がある。私は先に入館し、案内カウンターで車いすを要請した。あいにくすべて出払っているので、順番が来るまでロビーで待ってほしいという。仕方がない。田中さんには辛抱してロビーまで歩いてもらうしかない。田中さんに待ってもらう間、われわれ3人で見学することにした。ころあいを見て、車いすが空いたかどうか様子をうかがった。

車いすの人がどんどん通る。みんな自身の持ち込みである。結局、2時間以上、待たされやっと田中さんに順番が回ってきた。あとで聞いたら、美術館には4台しか車いすがなかったそうだ。
4時を過ぎてやっと昼食。予定ではパリに戻る途中にランス(Reims=発音はLensと同じに聞こえる)の町があって、この地に眠る画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ)の礼拝堂で遺作を見ることになっていたが、時間的余裕がなくパリに帰った。往復430キロのドライブだった。

モンマルトル美術館へ:
9月6日(金) この日は自由行動日。浦田さんは所要があり、終日会えない。田中さんはホテル滞在なので、加納さんと私はモンマルトルに行くことにした。あいにく雨が降ってきたので、ホテルからタクシー。着いたところは観光客でいっぱい。丘にそびえるサクレクール寺院をのぞいた。礼拝の最中だった。雨がやんだ。歩いてすぐのテルトル広場へ。画家や芸術家が集まった場所だ。似顔絵書きが客を待っている。白黒なら40ユーロ(5000円強)で描いてくれる。見るだけにした。
 
少し坂を下るとモンマルトル美術館があったので、見学することにした。小さな美術館だが、手入れされた庭園とともに古き良きパリを伝える作品であふれている。展示作品にはムーラン・ルージュの宣伝ポスターがある。1924年にAndre V. Prevostが描いたと説明にあった。このキャバレーが100年近く前からあったことが、ここでわかった。ほかに見覚えのある絵(Chat Noir=黒猫)があった。これも昔のキャバレーのポスターだ。いまは存在しない。


一帯は昔、パリの行政区ではなく、ぶどう畑だったという。いまも、美術館からぶどう畑が見える。美術館はロートレックやユトリロらが邸宅として使っていたそうだ。Chat Noirの絵ハガキを買って、レストランのテラスでランチを取った。オムレツがおいしかった。

午後、加納さんは歩いてホテルに帰ることにし、私は地下鉄でオランジュリー美術館に行った。

ノルマンディーへ:
9月7日(土) いよいよ旅の最終訪問地・ノルマンディー。パリから車で往復650キロ以上のドライブ。大阪―広島間を日帰りする感じだ。
朝7時30分、田中さんをホテルに残し、浦田さん運転で出発。3時間近くたって、大西洋に7キロと近いバイユー(Bayeux)という小さな町に寄る。この美術館には世界最大のタペストリーがある。フランス人とイギリス人に人気があるそうだ。11世紀のノルマン人、ブレトン人、フランス人兵士がイギリスを征服した物語が長さ70㍍にわたる絵巻物に織られている。幸い日本語の音声ガイドがあり、説明に従って歩むと勝ったり、負けたりしながらの征服劇が伝わってきた。
昼食は浦田さんの奥さん手つくりの海苔巻おにぎり。おいしかった。

主要道から脇道に入ると、Omaha Beach(オマハ・ビーチ)という標識が見えてきた。1944年6月6日、アメリカをはじめとする連合軍が上陸した海岸だ。静かな海岸には観光バスも来ている。波打ち際にはモニュメントが立っていた=写真。一帯の5.6キロにわたる海岸が上陸地点だ。

映画「史上最大の作戦」で描かれたように、上陸作戦は困難を極め、数多くの死傷者をだした。最前線の作戦に従事した兵士は20歳前後だったといわれる。
近くのアメリカ軍兵士を慰霊する広大な墓地(ほかの町でイギリス軍兵士の墓地も見た)を歩いて、さらに数キロ離れたアメリカ軍兵士の最初の上陸地点・ポワン・デュ・オック(Pointe du Hoc)に向かった。到着後がひと苦労。駐車場から歩くこと2キロちかく。寒い海風に向かって、でこぼこ道の先は断崖絶壁だった。

         
アメリカ軍の歩兵225人が霧の中、この絶壁をよじ登ってドイツ軍と最初の戦いを展開した、と英語の詳細な説明があった。ドイツ軍の塹壕(トーチカ)がいまもそのままの姿で残る=写真。豆粒のように小さく写っている人影と見比べると、いかに巨大な建造物だったかがわかる。見渡せば、塹壕と空爆による地面の窪地があちこちに広がっている。

パリへの帰路、ノルマンディーの小さな港町・オンフルールに寄ることにしていたのだが、高速道路で話しに夢中になっていて、降り口の標識に気付いたときは遅かった。また、標識が出るだろうと思っていたら、まったく出ないどころか、30キロ近く走ってやっと降り口。とりあえず、高速を降りて地図を見たら、引き返すよりパリに戻ったほうがいい、とまた高速に乗って、パリを目指した。午後8時ごろ、パリの一歩手前まで来た。農村地帯を夕日が染める。まるで、「落穂ひろい」の見事な風景だ。フランスに来たかいがあった。

ところで、今日はブエノスアイレスでIOC(国際オリンピック委員会)の総会が開催され、2020年のオリンピック開催地が決定することになっている。気になってパリのレストランで遅い夕食をとって、帰り際、ウエートレスに聞いてみた。「あら、今日だったの?」。まるで関心がない。ホテルに帰ってフロントに聞くと、「ちょっと待って」とパソコンでニュース検索を始めた。「どこだと思います?」「イスタンブールでしょ?」「違います。TOKYOですよ」。こんな調子でパリではまるで無関心の様子だった。

帰国へ:
9月8日(日) 浦田さんにドゴール空港まで送ってもらう。田中さんは空港職員に車いすを押してもらい、優先扱いで搭乗ゲートへ。加納、多田は付き添いとして後に従う。エールフランス292便は定刻通り午後1時50分、離陸。帰りは約11時間のフライトだ。このフライトは意外と苦にならなかった。
朝日新聞と日経新聞の衛星版(ヨーロッパで発行)やHerald Tribuneを読み飽きて、機内最後尾のスタッフルーム(乗務員がここで食事を取ったり、機内販売をしたり、休憩したりしている)で塩水を求めたのをきっかけに男性の客室乗務員と1時間ほど話した。

彼は普段、アフリカ路線を中心に勤務しているが、月に1回か2回は希望して関空便または成田便に乗務しているという。「お好み焼き」が大好物、と話す。「お好み焼きには日本の食文化が表現されている。しかも、野菜、肉(ブタ肉か)、魚(イカのことらしい)が使われ、栄養満点。フランスにはあのような食べ物がない」。なるほど。彼はノルマンディーの連合軍上陸作戦について、さらにフランス人にとって1939年―1945年(第二次世界大戦の始まりと終結)の歴史がどのようなものだったか、紙に年号を書いて丁寧に説明してくれた。広島の原爆について、わだかまりのないドイツ人への感情について、触れることも忘れなかった。

私の隣席に黒人がいて、乗務員に日本入国の手続き書類について盛んに質問している。流ちょうなフランス語だ。なぜ、関空便に乗っているのか関心があったので聞いてみた。これがきっかけで彼とフランス語で話すことになった。
彼はアフリカのギニアから来たという。すぐにはその国の位置がわからなかったので地図を描いてもらった。西海岸のセネガルの隣国である。首都はkonakey(コナクリ)と書いてくれた。 人口は1200万人。フランス語が母国語であることなど国について説明してくれた。
彼は道路管理の専門家でJICAの招きで大阪に向かっているという。研修・宿泊施設で1か月間、研修を受けるそうだ。日本で言えば国土交通省の技術職員といったところか。パリを経由してはるばる大阪へ。

9日(月)朝8時20分、エールフランス292便は早めに関西空港に到着。車いすの田中さんを出迎えた知人に引き継ぎ、解散した。ホットした。

雑感1:パリの変化
パリはどう変わったのか。その魅力はどこにあるのか---。わずか10日ぐらいの滞在でこの質問には答えられない。しかし、その一端を書いてみよう。

47年前の1966年1月、初めてパリのユースホステルに着いたのは寒い夜だった。貧乏旅行だった。1週間以上、ユースホステルに泊まっていた。そこで知り合ったオランダの女子学生とルーブル美術館を訪ね、ミロのビーナス、モナリザ、落穂ひろいなどの彫刻、絵画を楽しんだ。アフリカから来た男に「父が大使館に勤務している。すぐに返すから・・」と言われて、現金をだまし取られた記憶がある。人を平気でだまし、スリが多いのは当時と変わらないようだ。中日新聞のパリ特派員(外大OBだった)の自宅を訪問し、浄土真宗・大谷派門主の子息のアパートに行き、仏壇で合掌した記憶もある。


当時、地図を頼りに歩いた。格子窓と少しばかりのベランダがついたパリ中心部のアパートや街並みは当時と全く変わらない=写真。昔、暖房用に使っていた煙突もそのまま残されている。
あちこちでフランス人から聞かれたのは「日本には新幹線という高速列車が走っているそうですね」(64年開業)だった。地方に行っても聞かれた。思えば、そのころ、日本はテクノロジーの先端を進んでいた。

今回の訪問で、初日、浦田さんに空港からホテルへの移動中に聞いた言葉は「昔は(道路沿いの)目立つ看板は、ほとんど日本の会社だった」。いま、SonyのSの字も見当たらない。代わって、目につくのはSamsung であり、Hyundaiなど韓国企業だ。時代が変わっているのがよくわかる。
夜、ホテルでテレビを見ていたら、なんと中国語と韓国語の放送があった(日本語番組にはお目にかかれなかった)。よく見ると、China Central News という番組があって、中国人キャスターが英語で海外ニュースを伝えていた。ここまで中国、韓国が影響力を持っているのは疑えない。

雑感2:EUはひとつ
パリからノルマンディーへ、ミラノからヴェローナへ、フランスとイタリアの高速道路を走っていて感じたのは、EUにはまさに国境がなく、人と物が自由に動いていること。通貨はユーロ(イギリスを除く)のみ。単一通貨は旅行者にとっても助かる。国境をまたぐたびに通貨も変わるのは頭痛の種だった。しごくあたり前の話しなのだが、実際に旅行してみてEUはひとつなのだと痛感させられた。

フランスの高速8号線はイタリアでもベルギーでも8号線のままだそうだし、イギリス(GBT)など各国のナンバープレートをつけた乗用車、トラックが走っている。

雑感3:福島の影:
 パリでもミラノでも毎朝、Herald Tribuneを買って、読んだ。この新聞は題字の下にThe Global Edition of The New York Timesと書かれている。つまりNew York Timesの記事をそのまま転載している。トップニュースはアメリカがシリアに軍事介入するかどうか。オバマ大統領はだんだん腰砕けになり、ロシアのプーチン大統領に押し切られる動きが詳報されていた。

日本のニュースは探すのに苦労した。出発前に日本国内では連日、伝えられていたが、福島第一原発の汚染水が海に流出している問題。Herald Tribuneの紙面(9月5日付)では、1面に避難区域の農民が、袋詰めされたたくさんの土嚢を背に頭を抱え込む写真が大きく扱われ、中面で原発施設からの汚染水防止が困難になっていること、対策が遅れていることを1ページで詳報している。別の日の紙面では、対策として土壌を凍結させる方法が考えられていることが図解入りで書かれていた。
欧米から見ると、福島第一原発の放射能汚染問題がいかに深刻にとらえられているかがわかる。IOC総会で安倍首相がノルウエーの委員から「福島は大丈夫か」と聞かれ、首相が日本語で答えたと伝えられた背景が理解できる。

雑感4:パリの魅力(浦田さんの場合):
 世界中から年間1000万人以上が訪れるフランスの、パリの魅力はどこにあるのか。これについては、日立フランス赴任から39年に渡ってパリに滞在する浦田さんに語ってもらうのが一番、わかりやすい。一度、まじめに聞きたかったが、今回、帰国後、浦田さんにメールで質問して答えを寄せてもらった。以下、浦田さんのメールを引用させてもう。

『よく「永住されるのですか?」と聞かれます。これには、「NO、必ずいつか帰ります。自力で歩ける内に」と答えています。しかし、それが何年後かとなると、答えがでていません。

 定年退職後、ボランティア活動として、05年7月からパリ日本人会会長になってから、趣味だけではない責任感のようなものがどんどん大きくなっています。日本人会の中にある日本語補習校の校長を兼任していますが、これも7年経過し、今では気持ちの上で一番大事な仕事になっています。日本にいたら、このようなことは有り得なかったでしょう。

 映画、音楽、美術、ゴルフなどの便利さ、豊富さの魅力は、当然のことながら、こちらにいるからこその発言力。日本の愚かな事柄がよく見えるたこと。(いっぱしの評論家気分)地位とか権限などに全く影響されない生き方が出来ること(自由度の享受)などなどの魅力の∑、(総和)ですかね。』

 『人とのつながりの輪 の多様さ、その面白さ も大きな魅力です。いろんな会に招待されるせいで、各界のいろんな人に会えることも大きな楽しみのひとつです。有名人でも嫌いな人物には近づきませんが、好きな作家や映画監督、芸術家・・・と気楽に話をする機会に恵まれていることは、パリにいるからこそです。(日本人会会長という肩書もこんなところで、やはり有効です。)東京にいて、いくら行動的であっても、そういう場は殆どありません。東京にいるよりも、こちらにいるから多くの人たちに会える・・・これは絶対に間違いないことです。』

◆日立入社後、パリで仕事を始めた年、パリの会社の正式名、退職について:
 
『設立準備は1973年春から、当時先に出来ていた先輩格のドイツの販売会社へ研修目的で行っており、しょっちゅうHamburg-Parisを往復していました。
74年夏に家族帯同で赴任しました。通常家族帯同は、赴任してから約半年後くらいという不文律があったのだが、準備期間を考慮してもらえたのか、正式に会社設立前にOKとなっていました。
 
Hitachi France (Radio-TV Electro-Menager) SAが、正式にスタートしたのは、75年2月1日でした。このかっこつきの長ったらしい会社名にも、私だけが知っている思い出があります。Hitachi France SAでいいはずなのに、当時日立家電は日立製作所の子会社で、Hitachi Franceという          名称はもちいられない、たとえば、ドイツは、Hitachi Sales Electronics GMBH,とか英国はHitachi Sales UK とか、みな 日立家電(Hitachi Sales)から、Salesを冠するのが通例でした。
この伝でいけば、Hitachi Sales France SA となるところを、私は「salesは英語、かつフランス語では汚い・・・という形容詞。いくら本社の英文名にsalesが使われているとはいえ、スタート時点から汚れたという印象を与えるのはよくない。正式名は、Hitachi France の後ろに取り扱い代表品目をくわえたら、日立本社も文句を言わないだろう」と主張して通ったのです。現実的には、通称 Hitachi Franceを、使い続けていました。
 説明が長くなりましたが、この頃を思い出すと血が騒ぐのです。
 その後、1998年10月 日立製作所国際事業部(日立家電)に帰ったのですが、2年くらいしてから、日立製作所に転属していました。たしか、事業部長つきの顧問だったと記憶しています。退職は、定年の半年前でしたが、会社は残りの期間の給与をくれました。肩たたきが始まっていたころに自分で転職先をきめたからほっとしたのでしょう。
          
転職先は、フランスへの進出を考えていました。(株)日本色材工業研究所という化粧品の下請けメーカーでした。99年中は、出張の繰り返し、03年退職。そのまま現在に至る。』

以  上

後半語り手【加納 巌さん(1期)】

パリからボルドー、マルセイユへ
8月31日から田中&多田グループと分かれて、浦田氏とフランス国内旅行。パリからTGVで、サンテミリオンを経由してボルドーへ。電車で300キロ、3時間強かかって75ユーロ(9750円)一等席。ボルドー泊。翌日、マルセイユまで在来線で約6時間。76ユーロ(9880円)。
























マルセイユ:
マルセイユは随一の貿易港。アレクサンドル・デュマ作「巌窟王」の小説で有名なイフ島を訪ねた。マルセイユから船で20-30分にある小さな島。
イスラム風の影響を受けたキリスト教会、サントマリー・マジョール大聖堂も訪問。
マルセイユ市内は二日間バス市電乗り放題のチケットを利用。292ユーロ。市内観光にはプチトロリーが便利。マルセイユで二日間市内観光をした後、TGVでパリへ帰る。
















一人でパリ観光:
凱旋門、シャンゼリゼを観光。凱旋門はナポレオン一世が発案したものだが、完成は30年後だったので、彼自身は完成を見ていない。高さ50メートル、エレベーターもあったが、階段を使って登った。
















夜はグループ合流:
浦田氏と4人で有名なキャバレー、ムーランルージュへ。中は撮影禁止だった。食事とショーで一人当たり180ユーロ、2万円くらい。シャンパンが2人で1本ついてきた。






このマダムはなんと62歳。

モンマルトル:
9月6日、加納、多田はモンマルトルへ。サクレクール寺院、テルトル広場、モンマルトル美術館見学。ゴッホの家、探したが見つからず。





似顔絵描きは、40ユーロ5000円くらい。











ss
9月7日、浦田、加納、多田は浦田氏の車でノルマンディーのバイユー美術館(世界最大の絵巻物、タピストリーがある)に寄った後、太平洋岸の1944年連合軍の上陸場所・Omaha Beach、アメリカ軍が最初に絶壁をよじ登ってドイツ軍を攻撃した地点、Pointe du Hoc (ドイツ軍の塹壕=トーチカが今も残る)、アメリカ兵士の墓地などを訪ねる。パリまで往復約650キロ。























以  上











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