事務局より
前回「2013フランス旅行」というタイトルで同行の加納さん(1期)と多田さん(4期)の三人でお話いただく予定であった田中さん。その旅先での負傷のためお話をうかがうことができませんでした。今回の冒頭、傷も癒えた田中さんにイタリアの部分を補っていただきました。前回記録と合わせてお読みください。
田中 健次さん(1期)

「2013フランス旅行」

・ 昨年8月1日から4日間、パリを抜けて多田さんと北イタリアに出かけた。目的は、私の研究テーマであるナポレオンの古戦場を見ることであった。
・ ナポレオンは26歳から27歳にかけてフランスのイタリア遠征軍の司令官として北イタリアで前後8回ほどオーストリア軍と戦っている。遠征軍には10人ほどの将軍がおり、そのトップとして全軍を指揮する総司令官であった。大変な抜擢であった。
・ その前年、ナポレオンは国内軍司令官に任命されている。この任命は王党派が復活しようとしたヴァンデミエール事件鎮圧の功績によるものだというのが定説である。遠征軍に任命されてわずか三日のちに結婚したジョゼフィーヌとのからみからこの任命の背景を解く説もある。
・ 今回の旅行では、8つの戦場のうち4カ所を見に行った。
・ これがロディの古戦場である。かなり川幅が広い。私が手にするポール標識には「ナポレオン・ボナパルト(イタリア語表記Napoleone Bonaparte)、アダ川」とある。ナポレオンは、生粋のフランス人ではない。生地はサルジニア(誕生前にイタリアからフランスに売却される)。この橋(当時は木造)の攻防が戦いの分け目であった。ナポレオンは騎手から旗を奪い先頭に立って突撃するが、自身に当たってくる弾は全くなく自分が偉人であること(運の強さ)を感得したといっている。

・ アルコーレという戦場の記念館である。当日は休館日であったが、同行のイタリア人ドライバーが交渉してくれて午後から入ることができた。それまでカスティリヨーネという戦場を訪れることにした。

・ アルコーレの戦場である。川幅20mほど。ナポレオンは、馬に乗って敵陣に突入しようとしたところ、馬に敵弾が当たり馬ごと川に転落。フランス軍が押し返した結果、川から救い出される。ナポレオンの運の強さを示す例である。橋の向こうに戦場記念碑が見える。


・ その記念碑の文字盤。古語のイタリア語で書かれているようで若い人には読めない。

・ 右奥の多田さんの前に立つのがドライバーのジャコモ。チャーターしたハイヤーの会社の社長の息子。三日間、このベンツで付き合ってくれた。女性は同行した会社の従業員。

・ 彼ら二人と昼飯を一緒に食べているところ。彼は関係を否定するが二人は仲がよい。


・ カスティリヨーネの戦場記念館。ここも月曜日は休館。


・ ナポレオンが北イタリアに遠征した当時のフランス軍は、飢えた狼集団のように規律が乱れ略奪も常習化し軍隊の体をなしていなかった。フランス革命直後であり、新旧体制の民が入り乱れて構成された軍隊であったから致し方ない面もあった。ナポレオンは司令官に就任してすぐにニースの遠征軍の駐屯所に行き、兵士に布告をする。「兵士よ諸君は着るものもなく補給も悪い。政府は諸君に負う所大だが、しかし諸君に何も与えることができない。諸君の忍耐、これらの岩*の中で諸君の示す勇気は賞賛すべきものがある。にもかかわらずそれは諸君に何らの栄光ももたらさず何らの輝きも諸君に及ばさない。私は諸君を世界一の沃野に導こうと思う。豊かな諸国、広大な都市が諸君の権力下に入るであろう。諸君はそこで名誉と栄光とそして富を見出すであろう。イタリア遠征軍の兵士、諸君はよもや勇気と自給の精神を欠いてはいまいな。」この布告は、イタリアといういい所に連れていくから頑張ってよ、好きなように物を獲れということであろう。裏をかえせば、これほどまでに軍の士気は落ちていたということでもある。ともあれ、その結果、フランス軍は奮戦し連戦連勝の結果をもたらす。戦うごとに強くなっていった。
*イタリアに近いアルプスの山岳地帯を意味する。
・ 当時の戦争の勝敗は、敗者が金塊、食料品、美術品、船などを勝者に差し出すことで終結した。ルーブル美術館の絵画「モナリザ」もこの戦争の際のフランスの戦利品である。
・ イタリアを平定してからナポレオンは国民的英雄として頭角を現わしてくる。その後、ヨーロッパの各地で戦いヨーロッパの覇者となる。そのためにナポレオンは徴兵制度を本格的に取り入れ軍の体質を変えていった。その結果フランスにとって良かったか悪かったかは別として、これはナポレオンの功績の一つである。それまでのヨーロッパの軍隊はどこの国でも将校には貴族しかなれず、一般の兵は傭兵が多かった。戦争は相手を完膚なきまでにやっつけるというのではなく、戦後の外交交渉を有利にできるように戦さをやるという形での戦争が多かった。相手の国を抑え込む、あるいは属国にする、友好的な国にするという戦い方をしたのは、ナポレオンがはじめてであった。
・ これは名誉の骨折した時の思い出の写真である。アメリカ系の病院American Hospital of Parisに連れて行ってもらった。レントゲン検査をしてもらったが、この時点でもまだ股関節骨折がわからなかった。いい医者であった。「大丈夫、骨折していない、念のため日本に帰ってからMRIを撮ってもらえ」といって帰らしてくれた。ところが、日本に帰ると骨折していることがわかった。


・ 今回ケガをして感心したのは、航空機会社の身障者への扱いが素晴らしいことであった。イタリアのベローナからパリに帰る時も特別扱いであった。特別なリフトで飛行機まで上げてくれ、座席まで運んでくれた。パリから関空に帰る時も車椅子を手配してくれ、特別ルートで座席までちゃんと運んでくれた。このような対応をしてくれるので、皆さん、これからも安心して出かけていただきたい。

以 上










ss



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