事務局より
小学生の頃に、新聞の「声」欄に掲載されたのがきっかけで投稿マニアに。以来、常にメモを持ち歩くメモ魔と化し、今もネタを書き溜めては、川柳作りを愉しんでいらっしゃるとか。将来は小説も書いてみたいとうかがいました。今回お話された様々なご経験は、今までの書き溜めたメモ書きが、吟味された言葉へと変わる時の一助となるのだろうと思われ、将来書かれるのであろう物語への楽しみが増しました。
吉田 幸次さん(12期 スペイン語科)

「後始末と再建、へき地勤務の仕事人生」


良かれ悪しかれ、人間は過去の経験則、初期設定に強い影響を受けながらも、今後の自分史を少しでも良い方向に持って行くしかありません。外交官になりそこねた言葉好きな男の多様な仕事人生がどういうものであったか、その時代背景と共に振り返ってみたいと思います。    

                         
1.<プロフィール>
1950年(昭和25年) 北九州市小倉区に生まれる。戦後の雰囲気が残る中、団塊のコブ世代として生まれ、大人数の家庭と周囲の中で貧しいながら活気のある楽しい毎日。川筋気質の父と優しい母の間で、祖母の影響も受けて育つ。
「川筋気質」は福岡の筑豊炭田地帯から下流の八幡・若松地域へと流れる遠賀川流域の人情を指すもので、私なりに定義すれば不器用、武骨で喧嘩っ早く、気も荒いが情も強い愚直な人を言い、典型的な好例が俳優の高倉健であろう。
彼は「任侠シリーズ」、「幸福の黄色いハンカチ」、「八甲田山」、「あなたへ」等数多くの映画作品で、特に後半は武骨な中に筋を通す人間の表情がよく表れていた。(志村喬とともに人間味がにじみ出ている日本を代表する名優の一人だと思う。)

小学校/中学校: 
まだ生徒数多く、一クラス50~60人以上が普通だった。教室も足りず、二部授業も経験した競争の激しい時代だったが、私は遊びに夢中だった小学校の毎日。好奇心旺盛で、図書館で本を読みまくる時でもあった。漱石・鴎外から「80日間世界一周」、「海底2万マイル」まで何でも読んでいた。
漫画も大好き。少年クラブのファンで、毎月の月刊誌を楽しみにしていた(付録も)。コミカルな「ロボット三等兵」(前谷惟光)、「よたろう君」(山根赤鬼)が特に好きで、「少年」の鉄人28号・鉄腕アトムがそれに続いた。週刊少年サンデー、マガジンも4年生の頃発刊となり、友達と貸し借りしたりする日々であった。
ラジオ・テレビ好きの少年期でもあり、ライフルマン(チャック・コナーズ)、ララミー牧場(ロバート・フラー)等の西部劇、シャボン玉ホリディ、やりくりアパート、少しあとの西条凡児のおやじバンザイ等のしゃべくり、お笑いものも見て、友達とよく話をしていた。
とある日、料理番組を見た時、「さあいい匂いがしてきましたね」と聞くと、本当に体感では匂いが伝わり、TV電波は匂い・香りも伝えるのかと、馬鹿なことを考えたこともあるほど、新鮮な感覚で夢中で見ていた。
小学校時代から「愛染かつら」を一人で見に行くほど、ませた映画好きでもあった。「鉄腕稲尾物語」は母と見に行く。その他映画教室で見た映画もよく覚えている。
中学生の頃はファンレターも出すようになり、西鉄ライオンズの中西太や学習研究社「中学2年コース」で知ったジュディー・オングにも出し、返事をもらったこともある。(スペイン語ができるジュディー・オングから返事をもらったことが、その後、外大でスペイン語を選択するきっかけのひとつになる。)
国語・英語の中学教師には恵まれ英語はずっと好きだった。松本亨のラジオ「英語会話」もずっと聞いており、耳で覚えた発音やリズム感覚はその後も役立ったと思う。
中学校の中間試験前だった東京オリンピックも色んな種目を夢中で見た。陸上100mのヘイズの走り方をマネしたりしたこともあった。
新聞投稿等も小学校の時からやり、その後もずっとマニアだった。(朝日新聞声欄に載ったこともある。)


高校:
たまたま目にした新聞広告もあり、下駄履きと寮生活にあこがれ鹿児島ラサールで寮・下宿生活。独立心も強かったが家庭の有難さをより知る機会にもなる。周囲に刺激され、漠然と外交官を目指すようになった。
医者志望などの優秀な人間が多かったが、中には変わった人間も多く、試験の前夜、鬱陶しい翌日の試験のことを考えていると、学校に放火したものがおり、夜中に消火活動に走ったが旧館が焼け、試験は延期された。世の中色んな人間がいることを改めて知る。
 下宿生活のお蔭でオールナイトの洋画・邦画3本立て計6本を一度に見たのも最高記録。下宿の人に分からぬよう窓から出たが、夜母から電話かかり、後の始末に苦労する一幕もあった。
 同じ頃、孫悟空似の同下宿の友人と映画を見に天文館へ行き、「猿の惑星」を見て内容も彼の表情も興味深かった。
下宿生活は楽しめ、今でもラーメン鍋と電熱器/コンロがあれば一応何でも料理出来ると思っている。
 仁鶴の深夜放送はエグイ独特の迫力があり、夜12時頃ずっと聞いていた。
大学に入ってからは自分の投稿が読まれるとき、仁鶴には「阿倍野のコージちゃん」と呼ばれていた。
大学:
東大入試中止の影響もあり、二期校は大阪外語スペイン語に方針転換。
ワンゲルに入ったが、一回生の時夏合宿決行かどうかで議論もあり、また大学封鎖や変則的な外部授業等で落ち着かぬ学生生活一年目を過ごす。
バイトに精出し、ワンゲルも不安定な時期あったが、活動は続く。 アルバイトは家庭教師、現場作業、出前、ライン作業、皿洗い、夜警等多種多様。(アルバイトはその後もよくやる。)
片町線の「住道」の英語バイト等条件のいいものもあったが、夏合宿、帰省等で休み、結局長期に続く安定したものは難しかった。
しかし語学、外交官試験や教員免許用の単位取得に追われながら、また紛争後厳しくなった授業もあったが何とか卒業、就職出来た。 
“ひかりは西へ”の時代は新幹線が各地域の風情を変えた。自販機の普及とともに500円札が使いにくくなった時代でもある。周遊券やエアーのスカイメイトもよく使った。青春18切符は今でもよく使っている。
帰省するたびに駅周辺の風情が個性のないものに変わっていくさびしさも味わった。

<趣味>映画、スポーツ鑑賞、旅行・鉄道、演芸、水泳、テニス、小説、川柳、投稿、モニター等。
 特に投稿は学生時代のサンケイ新聞が一回で現金3000円以上とアルバイト変わりになった。
・尊敬する人物: ダライラマ、田辺恭一(叔父・絵師作家) 
・影響を受けたしゃべり名人: 小沢昭一、永六輔、淀川長治 
・大阪での楽しみ:寄席通い、漫才同人誌(秋田実)購読、いとしこいし、やすきよ、阪神・巨人等のしゃべくり漫才と、落語は人情噺の米朝、仁鶴(高校時代から深夜放送ファン)、文珍、枝雀等。 米朝は後のアブダビ時代もずっとABBAのテープと一緒に持ち歩き聞いていた。
当時阿倍野に下宿しており、新世界や天王寺界隈はよく歩いた。のちに外地でもよくSOHO辺りを歩いたが猥雑な雰囲気が性に合っているのかもしれない。
よく歩いたジャンジャン横丁あたりの新世界新花月で芸の厳しさを知った。客の笑いをつかむのに厳しい関西の芸人は、気を遣いすぎていると思うこともあった。当時は吉本だけでなく、角座の松竹、東宝系等あの頃の大阪はバランスが取れ、色んな寄席を楽しめた。

田辺恭一はもともと美術の教師で日展等に入選。祖母の自慢の甥。70歳の頃から小説を3冊出した。「川向こうの団欒」(出版:石風社)は熊本の劇場の風情をよく伝えており、母、祖母から聞いていた熊本市内(河端町近辺)の様子や劇場の様子がよく伝わる小説になっている。(「春の海」の宮城道雄と琴の演奏をし、優しい音だと褒められたというのが祖母の自慢だった。)




2.<就職後> 
最初に就職した海運会社が経営悪化し、以後多様な経験を積む。
-20歳代:青田刈り最盛期で海運会社(ジャパンライン 以下JL)へ。営業、オペレーション業務からスタート営業の忙しさに驚き、外交官試験はあきらめる。(外交官試験を通らなくとも、外務省や在外公館で働く道はいくらもあることは後に知った。)

・在来定期船でトラブル続きの中南米乗船実習3ケ月半。(1974年)
山下埠頭出港後ウィンチトラブル。修理のため、三浦沖から引き返し、横浜で1週間待機。
出港後太平洋を渡りメキシコ沖で、一緒に夜中に歓談していた司厨員が死亡した為、急遽通訳兼被疑者としてメキシコのアカプルコ港に緊急入港。心臓が悪かったらしく、疑いは晴れたが、これが初めての海外上陸という波乱な船旅を象徴する出来事となった。
途中、閘門式のパナマ運河は人造湖のガツン湖まで閘門を段階的に上って行く方式で時間はかかるが貴重な経験となった。ガツン湖前後での岸壁接触、浮立物接触他トラブル多く、海難報告書の為各港で上陸し領事館訪問が出来た。(後スエズ運河も旅した。)
アルーバ、キュラソ-は美しい島ながら旧支配国が多いためか標識・看板が5・6か国語で並んでいるのに驚く(英語、スペイン語、オランダ語、フランス語、ポルトガル語等)。
プエルトリコのサンフアンでは砦を散策し飲み食いすれば、本船出港時刻が迫った為、あわてて公園を走っていると二人の警官に銃を向けられ危なかったが、英語・スペイン語で何とか説明し事なきを得た。夜中の一人歩きは危ないものだが走るのはもっと危険。
外国では、平時に人が走る姿は滅多に見ない。パナマ、ドミニカでも危ない目にはあったが、最小限の被害で済んだ。
復航は、ノースカロライナの港で葉タバコ積みとなり、これが始めてのUSA上陸。
また帰国後の売船が決まった為、慌ただしく書類作成、整理等に励む。


・アブダビ駐在: 1977年
とにかく蒸暑いアブダビから、ドバイ、シャルジャへ通う。アブダビ着任後最初の大事な仕事はビザ・免許証取得の為のシャルジャ通いだった(会社はシャルジャ登録だった為)。
約230kmの灼熱の砂漠の旅。 朝一に出かけ、途中何度か車のスタック等の事故に遭う。
夜の星はきれいだったが、こんな所で俺は死ねないと何度か思った。家族にも会いたい。
シャルジャに着き、暑い中インド風のサムサ(サモサ)を食べるのが唯一の楽しみだった。
砂漠越え今日もシャルジャのサムサかな

前任者は飲酒運転の事故で国外追放(Deportation)。映画「パピヨン」のような太い鉄格子からおにぎり等の差し入れをしたこともある。結果、単身者は一人となり映画三昧の日々。
家族が来てからはドライブ、素潜りでホタテ取り、パーティー等を楽しむことも多かった。
サウジアラビア出張は厳しい戒律に苦労する。特に8月のラマダンの時にリヤドに一人で出張した時は神経を使う出張だった。猫一匹おらず外も歩きにくいほど。
アブダビでは日本人会役員活動、文化会、体育会(運動会/野球大会)などの幹事役をやった。
~寅さん、紅白歌合戦等自主上映。JAL講演会で有名人と話も出来た(立川談志他)。
日本人小学校の設立にも協力し、立ち上がり時種々の協力を行った。今では現地での評価高く、現地人の生徒も入り交流に貢献しているとのこと(先日の朝日新聞報道による)。
会社はオイルショック後の整理を経て原油高騰により好決算、親会社を一時救うほど配当した。

-30歳代: JL陸組専従組合書記長としてスト決行。
海運会社は世界的な競争の激しい世界で、昭和39年の海運集約も財閥系同士の商船三井が誕生するほど、危機感に溢れた構造も併せ持つ業界だった(後の銀行再編の先駆けか)。
その中でジャパンラインは無謀なタンカー建造で銀行管理下に置かれ、「スリーゼロ」等の言葉を流行させるほど資金繰りが悪化していった。
そんな状況では組合も合理化に協力せざるを得ず。組合役員にも手をあげるものがおらず、またお鉢が回ってきたので経験もなかったが仕方なく引き受けた。
大手6社(NYK、MOL、JL、KL、YSL、Showa)他海運共闘で春闘を闘い、時間外を続けたが成果なく、最後は時間内ストまで決行し生活給を確保した。 
組合員をまとめるのに苦労はあったがやりがいのある役目でもあった。
その後、JLから転職の際は同時通訳で有名なサイマルの村松増美氏の面接を受け、決まりそうだったが辞退したこともあった。結局マツダ(広島)の公募試験を受け、決めて一時Jターン。


・マツダ(広島)でコロンビア長期出張。
現地CKD組立出資先会社が更生法(Chapter 11)に入り、マツダ代表として継続的に現地銀行団と再建交渉。 部品の品質管理体制見直し等で協力。経営を軌道に乗せる。
駐在予定となり退社したが、ボゴタ他を回り貴重な経験となった。(後任は警官に射殺される。)
ボゴタでは、丸紅の松尾君(ワンゲル13期)に偶然出会い、その後何度か招いてもらった。
ネバード・デル・ルイス山(5321m)にも登る。ほとんどは酸素不足であえぐ乗用車で4300mまで何とか登る。
同山は1984年噴火。火砕流がアルメロ近辺まで流れ甚大な被害を出した(21000人死亡)。
アンデスの景色は雄大で、北海道をさらに大きくした感じだった。
広島では独身寮の生活から再出発。尾道の天寧寺(曹洞宗)へ座禅に通う。東広島から尾道まで60km、一時間の早暁ドライブはさわやかな経験となった。
横浜に移ってからは鎌倉建長寺(臨済宗)の座禅に通っていた。

・リース会社で中国(大連・北京)出張。中国と初めての英文契約を大連当局と結ぶ。
それまでは日中両国語の契約で解釈上トラブル多かったため、英文契約にするのが基本だった。
ドラフト持参し説明するも、まともな通訳おらず「長プラ」他の説明に足かけ2日間、夜は 乾杯・カンペイにやられたハードな交渉だった。
開放政策が始まった頃、現地側も全てに不慣れだが交渉のポイントは現地金融公司の保証を付けること(有担保‐ユタンボ)であり、最後にそれをまとめ、何とか15億円の融資契約を結んだ。
                  ユタンポで今日も暮れゆく大連の夜

大連の旧市街は上野駅、三越等の風情残り、楽しめる風景。
ホテルのチェックアウトに2時間以上かかり、途中車がエンスト。やっと北京へたどり着く。
天安門事件の直後だが現地では実際には緊迫感薄く、故宮も見物出来た。 但し、閉められない中国式トイレには参る。台湾の故宮は陳列がすごいと聞くが、北京の故宮も一見の価値あり。

-40歳代: シーコム社でバブル整理・再建屋。
シドニー、フィジー出張(数十回)、国営航空の株式売却交渉でフィジー新政府と交渉の上、
購入時を上回る有利な条件でQANTAS航空に株式売却。銀行管理下ながら2億円以上の収入。
フィジーはリゾート地。 交渉は首都スバとなる為、遠く大変な時間を要するがよく説明し無事成功に導いた。
リゾートホテルは机もなく出張には不便。朝食時、日本からの電話で話をしている間に、ベランダの食事を鳥に食べられたこともあった。
シドニー高級ホテルの運営合理化、Asset Management徹底の為、定期的にミーティングを持ち運営合理化を図る。いわばバブルの後始末でもあった。
オーナー代表としてダライラマと邂逅。(面談、*カターの儀式を受け自叙伝「Freedom in Exile」を頂き感激する場面もあった。)
(*白いスカーフ-カターを相手に渡すことにより、自分の心からの敬意を表すという挨拶の印。写真は握手をしているのが私で、真ん中に立っているのは仲介してくれたRegent Sydney HotelのGM。ホテルの定例運営会議に出張中の出来事。)


 


シドニーは最も過ごしやすい場所で、動物園や植物園・水族館にも足を運べた。
ミュージカル(Beaut and Beast, Lion King等)やカジノも楽しめたシドニーは機会あれば是非再度行ってみたい場所。
 
-50歳代: 米軍工事元請業者の通訳、翻訳担当として厚木基地等で働く。契約数が膨大な為、現場管理や厚木事務所長もやった。
厚木、横須賀、座間、Camp富士等米軍基地は隅々まで経験した。
医療翻訳、Annual Report等各種翻訳も手がけた。 
 
-60歳代: 神奈川県の公務サービス(約4年)
民間での経験を公務サービスで活かしたいと考え、神奈川の公務を中心にやっている。
~自然環境保全センター:丹沢・大山等の登山道整備等ワンゲル経験でやった。
~県立高校外国籍生徒補佐:久々スペイン語を役立てたかった。図書館の本をよく読めた。特に長編小説を読みなおすにはまたとない機会となった。
~かながわ労働センター:各業種の経験が少し役立った。
~箱根町等:ワンゲル経験と最近の山歩きの経験を活かせた。

電車やバスの中でいつもやっているのは、言葉遊び(川柳他)や数字遊び(数独やゴロ合わせ)
                  駅のごみいつのまにやら「ビン」「カン」に
(夕刊フジ掲載)1988年頃



振り返ると、アブダビでの各活動と組合の仕事をしていた頃が、最もやりがいを感じていた。人間はやる気があれば何歳でもなんとかなるのではと思って頑張っている。今も山を歩いたり、水泳をして身体を動かすようにしている。











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