事務局より
日本企業の中国進出がまだ本格化しない時代から、長年にわたり現地の官民の人たちと接触しながら仕事をされてきたご経験をもとに、中国の社会・経済の実像についてわかりやすくお話しいただきました。
中国は一筋縄ではいかない、奥からいくらでも人が出てくる巨大な国、ひとつの世界、というご指摘は新鮮です。とてつもない、このような国と上手に付き合うために、日本も心しなければならないでしょう。
北村さんもおっしゃっていましたが、今回のお話は現役の学生の皆さんにこそ聞いてほしい内容でした。春合宿の前日で欠席であったのは残念。この記録を読んで今後の参考にしてください。
北村 庄司さん(8期、中国語学科)

「中国: この不可解な国を理解する為に」


1. 私と中国との出会いと今日までの軌跡
奈良・吉野に生まれ育つ。幼少の頃より、山間の狭い空を飛ぶ飛行機を仰ぎ見ながら、山の向こうの世界に思いをはせていた。
高校3年の担任は外大英語科卒の人格者であった。「英語は有名私学でも学べる。外大ならば、市場規模のでかい言葉をねらえ!」という、その先生の助言に従い、インドネシア語科、スペイン語科、中国語科を抽出。願書提出日の倍率が一番低かったのが中国語科であった。
入学後、「中国を見てやろう」という思いがつのる。日中旅行社が学生中国旅行と称し、6万円で募集。ひと夏、デパートのタオル売り場のアルバイトで3.5万円ためる(4年後の私の初任給は34,500円)。
1969年の入社当時、中国共産党と日本共産党がソ連をどうみるか、で論争・対立。そのあおりでビザが下りるめどが立たず、旅行は募集中止。中国行きを断念。中国、北朝鮮は渡航禁止国の時代であった。代わって、WV部と中国研究会に入る。1年の夏休みが終わってからの入部であった。

中国語科の就職先は友好商社か銀行くらいしかなかった時代。初めて松下電器から2人枠の求人。主任教授によれば松下電器の人事部長は外大卒とのこと。その言葉に勇気をえて応募、採用された。
初年度は製造、営業分野で半年ずつ、計1年間の研修。
国内研修後、海外事業本部に配属。「君は台湾研修生」という内示に頑強に抵抗。周恩来三原則により、台湾に行った者は大陸に入国できないという事情があった。
その結果、入社2年目の1970年にマレーシア、シンガポールの海外研修生となる。
マレーシア、シンガポールで2年間の研修生活を送ったが、当時、自前の販売会社はまだなく、オランダ系商社の代理店にいきなり放り込まれた。高校以来久しぶりの英語漬けの毎日であったが、数ヶ月ほどして突然、周りの英語が聞き取れるようになった。その後、1976年からタイで6年間の出向生活を送った。英語でタイ語を習得するという苦労もした。結局、卒業後17年目まで中国の地は踏めず、英語ばかりで仕事をする。
1985年末近く中国部隊に配属されてわずか3ヶ月後、上海事務所責任者に。学生時代に覚えた程度の中国語はすっかり忘れており、また、上海には上海語(方言)があり、大学で学んだ北京官話は不勉強だったためかさっぱり通じなかった。
日本飯屋も一軒もなく、今日の近代都市の光景は想像もつかないのどかな畑の広がる、(ぼろっちい)田園風景の上海浦東であった。
中国ビジネスに携わる契機は所属事業部の規模縮小、リストラによるサバイバルの動きがあり、「君は中国語が出来るよね。」という上司の一言で異動を勧められたからだった。当時の中国の外貨準備高は200億ドルあるかないか。消費引き締めのため、クレームキャンペーンまで展開され、毎月定期的に日本領事館からクレームレターの山を受け取りクレーム処理に追われる日々だった。営業不振でいったん帰国。
その後は、完成品は売れず、中国で造れない冷蔵庫やエアコンのコンプレッサー、FAX,監視カメラ等を日本から輸出する仕事に3年間従事した。
1989年、天安門事件の前に北京にできた松下初の日中合弁カラーブラウン管製造会社の営業責任者の内示をうける。6月4日に事件を迎えるが、北京市政府から命と生活は保障するから日本帰国は思い止まって欲しいとの要請もあり、また、たまたま当日朝、工場の生産ラインから初の合格品生産の日と重なり、温度管理のむずかしい生産ラインを止められないという製造現場の事情もあった。その日は、日本との回線がいつ切れるかもしれないと、国際電話を終日つないだままにしていた。出向者達がなかなか帰国しないことについて、アメリカ議会筋からしつこいクレームがあるとのワシントン情報も寄せられた。私は出国も出来ず足止めされる日々が続いた。
事件後、欧米の対日非難がピークを過ぎた10月にようやく北京に赴き、出来上がったカラーブラウン管を中国顧客のテレビ組立工場と直接交渉して販売を始めた。それまでは国営貿易商社が介在しての商売であった。これによって中国顧客の具体的なニーズが直接つかめるようになった。
中国政府の計画にもとづいて生産・販売計画を立てるが、政府による買い上げではなく、販売は企業自身の努力によるしかなかった。政府による配分枠の提示があるだけで、売れるか売れないかは中国各地のテレビ組立工場の資金力しだい、という仕組みも初体験する有様だった。成約率は4割前後でしかなかった。
このカラーブラウン管工場には4年間勤務。その間、売れずに在庫を抱えることも多く、嵩だかいブラウン管の保管場所確保に苦労した。中国の商売の実態を身に染みて体験した。
1992年、鄧小平の『南巡講話』が発表され、一段と対外開放政策が強力に推進され、外国の企業が中国で物を造る時代に。
帰国後、このカラーブラウン管工場の合弁会社設立の経験が生きる。営業部門から海外事業部門に異動し、3年間に27社の合弁、独資(100%出資)会社設立に事業推進責任者として関わった。毎月、中国からのミッションが来て、そのたびに若い社員を事業化調査に中国に派遣。調査報告を受け、指示、フォローアップをしながら、次のミッションへの対応、という繰り返しであった。この3年間、一度も中国に行けなかった。忙しすぎた。
中国に多くの工場をつくった結果、「創るプロジェクトもなくなってきたので、次は本社機能・経営インフラの早期現地移転と人材の育成、さらには事業経営面でミスをしない、利益をあげる仕組みづくりを中国で行うように。」というトップ指示が出た。1996年、再び北京の現地本社で傘下の全事業会社の事業総括業務に従事することになった。既設、新設企業(30社)の事業助成、統括に7年間従事した。その間、法務、知財権、品質管理、環境保護等、企業インフラの充実や対電子工業部(現機電部)、対外経済貿易部(現対外経済貿易合作部)、税関、国家税務総局、技術監督局等の政府行政部門折衝や消費者からの品質クレームなどの厄介な対応、さらには清華大学、北京大学等への寄付、共同研究事業、自社R&Dセンター設立などの渉外も経験した。
その後、2003年から最後の3年間、JETRO北京センターに出向し、中小企業の対中進出助成や経営支援活動に従事。「駆け込み寺」機能とトラブル防止のための啓蒙活動に3年余従事した。中国事情について知識は持ち合わせていても、そこまでは悪くないだろうとタカをくくって失敗する企業が多い。中小企業のこのような実態に比較して、松下電器は中国に進出して10数年の間に、組織的に攻める人と守る人がいて、それぞれに職能ができている。中小企業はリスクの多い、脇の甘い仕事をしているところが多かった。
中国滞在は結局、延べ15年間に及ぶことになった。


2. 松下幸之助の「中国観」

松下幸之助は1979年、80年に中国を訪問。
“中国は一国でひとつの世界”
①様々な要素を内含している。
②行く先々で異なる人々の異なる想いと夢。異床異夢。
③とてつもなく広大な国土、多民族国家。
④巨大な人口、経済的潜在力。自給力。軍事力。人的資源。
⑤農業大国: 70%が農民。巨大な労働予備軍。農業のGDP構成比は一桁: 澱み(停滞)と淀み
  (保守性、無知)


3. 中国人の性格上の特質

(1) 旺盛な独立心
「むしろ鶏頭となるも牛後となる勿れ!」
「人に構われる、使われるのが大嫌い」
「先ず稼ぐ、儲ける!大将に成る。」(向銭看!=向前看)
(2) 融通無碍
「大将になる為には、何事にも耐える。あらゆる人脈を求める。」
ネットワーク構築こそ蓄財の源(①血縁、②親族、③地縁、④宗族)
「法は破られる為にある。リスクは冒す。」(上面有政策、下面有対策)
(3) 損得勘定
「儲けること=善」硬的道理(万人にとっての真実、真理)


4.中国社会の特徴

(1) 巨大な開発途上国: 誰も知らない、よその地域の状況、習慣、言葉。劣者がより劣者を誹謗、蔑視することで自己の優位性に安住。
上海―南京間300Kmに5つ、6つの方言
上海人以外は、北京人も含め皆、田舎者。北京人が最も嫌いな上海人。でも、両方が他地域の人を田舎者扱いすることでは意見一致。地方の都市部と郡部の関係も然り。
広大な北京市: 四国に匹敵する行政区域面積

(2) 70%を占める農村がビルトイン・スタビライザー機能
農民は貧しい、今も被搾取者階級。でも、劣悪なインフラの中、安穏で独立した生活を嗜好。
生存権さへ脅かされなければ、共産政権でも帝政でも「そんなの関係ねえ~」
血縁、地縁の狭い生活圏に安住!小規模な運命共同体を形成し、抜き難い保守性。近隣地区との連携、連絡も風聞の域を出ない。
中央政府にとって最も怖いのは農民層の離反。

(3) いびつな三権分立: 司法が行政に従属
法院(裁判所)は人民代表大会(行政部門)の下部組織。
判決文は政法委員会(委員長は共産党書記)の承認が必要。
「無実の罪」で拘留され、4年経過後も判決出ないまま留置場暮らしという例も。

(4)その他
人口は公の発表では13億人。でももっといるだろう。
経済合理性。「稼ぐこと」に最大の価値観。
「ギョウザ問題」は起こるべくして起こったもの。農薬を2回・3回に分けて撒くという感覚がない。虫の駆除のために農薬を1回ですましてしまう。
農業で力仕事ができない女子は戸籍に入れない。→食料の配給を受けられない、教育が受けられない。
銀行の利息ということがわからない、農村部の親。貨幣経済が浸透し、犯罪が凶悪化。
子どもの教育の競争激化と機会不均等が大きな社会問題。地方であれば、20数万円で学校建築ができる。レンガむき出しでも雨露がしのげればよい。教師を調達するのは、村長の役目という現実がある。
時間の流れが場所により違う。それが所得の地域格差を発生させている。
中国にはまだ知られていない場所が沢山ある。この10年間で発見された珍しい場所もあり、これからも新しい場所が出てくる国。
人民に権限を与えるのは役人。よって、役人の持つ情報を知る立場にあるか否かが富の形成を左右する。
中国は分裂しないだろう。インテリ層に起爆力がないから。歴史的にみても知識人が起こした革命は失敗している。知識層の揺らぎは、教育・情報のない農民に波及しない。

5. 中国ビジネスのABC
(1) 契約社会
書面第一主義(書き物以外は、信用できない社会)
信義と契約(「信義」を裏書するものが「契約」)。欧米社会と同一。
① 表見代理: 社印、公印が押捺されていれば、法的効力を有する。
② 人知と法治
1. 法体系は整頓、整理完了。荒削りで半ばザル法。
2. 政法委員会(委員長は共産党書記)が判決内容を決定。
3. 人民法院(裁判所)は人民代表大会(行政)の下部組織。
「商人は金で時間を買おうとし、官僚は権力を高く売りつけ富を得る」
「故にコネを求めて走り回り、巨大汚職が根絶できない社会構造を生む」
「法の解釈に違いがあっても行政の意向に従わざるを得ず、従えば富を得る」
③ マクロ(中央政府)とミクロ(地方政府)の戦い(利害攻防戦)
④ 法律上のローカルルール、地域限定ルール、法律制定と施行ルールとの時差
「試行条例」、「○○市における暫定条例」という名のリトマス試験紙的法令の発令。上手くいけば全国的に施行。
施行後、数ヶ月から1年前後して「実施条例」や「実施細則」という名の運用ルールを定める。その間に問題点を抽出し、想定される問題を可能な限り解決して公平感の確保を目指す。



6. 「中国の未来像と日本の対処策」に関する私見と予測

(1) 日中貿易>日米貿易(金額)の転換点
(2) 環境問題、省エネ技術両面と既存産業面のソフト技術の新規需要開拓
(3) 中国経済の自由経済圏へのリンケージの拡大と深化
(4) 米国経済への信頼感の揺らぎと国際政治経済の多極化傾向の加速化
(5) 見えない中国の崩壊シナリオ。ゆっくり上げなければならない農民の生活水準
(6) 近くにある巨大市場は日本にとって米国以上に美味しい市場
(7) Give & Take: 太らせてゆっくり味わえ!“Win-Win”関係の長期的構築
(8) 日本の絶えざる技術革新力保持こそ最大の武器
①メカトロニクス、②マイクロエレクトロニクス、③環境保護技術、④省エネ技術
日本の持っている技術、管理能力は中国に負けない。
地下水汚染・黄砂・砂漠化対策などは日本のビッグチャンスである。

日本の自覚
「匠の技」の優位性確保が日本の東アジア経済圏での生命線!
日本は「身の丈を弁えよ。中国、インドとは国体が異なることへの自覚忘れること勿れ!」

中国のリスク
食糧確保、水の安全確保!
経済成長力の鈍化とインターネット開放の悪影響伝播リスク
貧困層農民への適切な所得分配政策の成否

以 上








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