事務局より
昭和40年、大学卒業を前に、就職は後回しと、当時としてはまだ珍しい「海外旅行」の夢をかなえるために奔走。アメリカからヨーロッパ、中近東、アジアの世界旅行を実現。道中で体験したこと、また旅先での出会いがその後の就職にも繋がっていったという、多田さんの“原点”ともいえるお話をしていただきました。

多田正俊さん(4期)

「昭和40年(1965年)の世界旅行」



旅行ルート
大阪(昭和40年=1965年7月出発)→(貨物船)→米国・ワシントン州エベレット→シアトル→同州ヤキマ周辺→シアトル→サンフランシスコ→シアトル→カナダ・バンクーバー→(カナダ太平洋鉄道)→モントリオール→ケベック→モントリオール→(バス)→ニューヨーク→(バス)→ワシントンDC→(バス)→ニューヨーク→(航空機)→アイスランド・レイキャビク→(航空機)→英国・グラスゴー→(鉄道・ヒッチハイク)→ロンドン→(フェリー)→ベルギー・オステンド→(鉄道・ヒッチハイク)→ブリュッセル→(鉄道)→パリ→(鉄道・ヒッチハイク)→リヨン→(鉄道)→マルセイユ→(以下・仏貨客船)→スエズ運河→イエメン・アデン→インド・ボンベイ(現・ムンバイ)→セイロン(現・スリランカ)・コロンボ→シンガポール→バンコク→マニラ→香港→神戸港(1966年4月着)


1) 昭和40年前後の米国と日本

昭和38年 11月22日 ケネディ米大統領暗殺
昭和39年 4月1日 海外渡航自由化。但し、年1回、所持金US$500の制限。
       10月1日 東海道新幹線が開業
       10月10日 東京オリンピック開幕
昭和40年 2月7日 米国、ベトナム北爆開始
昭和41年 2月4日 全日空ボーイング727型機、東京湾に墜落、133人全員死亡
       3月4日 カナダ航空DC8型機、羽田空港防潮堤に激突、死者64人
       3月5日 BOACボーイング707型機、富士山上空で空中分解、124人全員死亡
       11月13日 全日空YS11型機、松山空港で海に墜落、50人全員死亡

・ 昭和38年、アメリカのケネディ大統領暗殺のニュースを聞く。当時弱冠43歳で大統領になったということであこがれの人であった。下宿をしていた住吉区・帝塚山から天王寺に出て、そのニュースが書かれている新聞を買いあさった。

・ 在学中、海を渡ってみたいという強い希望があった。きっかけは、小田実の『何でも見てやろう』。当時河出書房から500円で出ていた。むさぼり読んだ。

・ 浄土真宗本願寺派(西本願寺)のシアトル仏教会で開教使をしていた、兄をたよってアメリカに行きたかった。

・ 昭和40年は、外大を卒業する年であったが、当時高度成長期の真っ只中で、周りの人も就職を簡単に決めていたので、そんなに簡単なら一年くらい就職を先延ばしにしてもよいと思った。その猶予の間、海外に行く夢をかなえようと思った。

・ ところが、当時アメリカまでの飛行機代は、ハワイ経由で片道30時間23万円。昭和41年に就職した読売新聞社の初任給が2万3千円であった時代。飛行機はとても無理ということでいろいろ調べ始めた。

・ アメリカ〜大阪間を往き来する、新聞紙用の材木を運ぶ三光汽船の貨物船のことを知る。その船は大阪からアメリカへ渡るときは空荷であった。三光汽船の社長は、当時、自民党の国会議員の河本敏夫氏(故人)で、兵庫4区から出ている。自分は兵庫4区の選挙権をもっている。早速(、)大阪西区江戸堀にあった三光汽船の本社に飛び込んでいった。

・ そこで、自分は兵庫4区の住民であり、外大生で外国に行きたいので船に乗せてほしいと頼んだ。龍野高校出身で河本先生の後輩にあたると泣き落としもした。応対してくれた人は、しばし退席のあと、その場で船に乗せてくれると言ってくれた。

・ 海外へ行くためには、ビザの問題も解決しなければならなかった。神戸にあったアメリカ総領事館では、学生ならばビザを出しやすいが、卒業生ならば向こうで勉強もしない、無職の人は難しいといわれ、信用できる人の「レター」とアメリカでの受け入れ先の「銀行の残高証明」が必要だということになった。そこで、フランス語科の畠中主任教授のご自宅に伺い、英語でレターを書いてもらった。また、兄に頼んで銀行口座のコピーも用意した。それらを持って総領事館で英語のインタビューを受けたが、1年内に帰ってくる保証がないと言われたので、その「レター」を見せて懇願し、漸くビザが下りた。

・ 結局、出発するまでにこうした手続きに三ヶ月かかった。その時の手帳を見てみると、ワンゲルOBの田中健次さん、広岡義昭さんのお父さん、外大ワンゲル等々よりお餞別をいただいたという書付がある。当時、海外へ行くということはこれほどに異例で、決死のことであった。

・ 昭和40年7月7日、三光汽船の旭光丸に乗って、大阪南港日立造船所のドックから出発。大阪からワシントン州エベレット港まで12日間。幸い波もなく、穏やかで湖の上をすべるような感じであった。客は自分ひとり。船室がとても豪華であった。運賃は2万円ぐらいだったか。食事は船長の隣の席でとらせてもらうなど、大変かわいがってもらった。

・ 時差を克服するため、船の生活は毎日(、)時刻が30分ずつ早く進められた。毎日30分ずつ早起きをするのだが、それが体にこたえた。8日目くらいはついていけたが、それ以降は朝に起きられなくなってしまい、朝食の時間に「船長が待っています」と呼び出される始末であった。


2)米国の市民生活―車社会、日系社会、農村、日本製品などを中心に

・ 未明に船がアメリカ大陸に近づくと島々が目に入ってくる。車のヘッドライトの動きや家屋が見えると、とても興奮した。朝の8時か9時頃にエベレットに降り立つ。兄も迎えにきてくれていた。「アメリカに来たんだ!」という上陸時の印象は今でもはっきり覚えている。そこから車で約1時間のところにある、兄の勤めるシアトル仏教会に行った。

・ 仏教会で、本堂や食堂、トイレなど掃除の仕事をした。結構広いので一日仕事になった。

・ 市立図書館にも通った。そこには世界中の新聞が読める部屋があった。

・ ワシントン大学にも行った。アジアの学生もたくさんいた。日本人の学生も先生もいた。勝手に入っていってもノーチェックなので、誰でも授業を聴くことができたが、いきなりなので英語はわからなかった。

・ 旅費を稼ぐために仕事を探した。内陸部の日系人農家のところに求人があったのでそこに行った。ちょうどアメリカがベトナムへの北爆を開始した年だったので、兵隊の食糧としてポテトを増産するので人手が要るのであった。そこではメキシカンがたくさん働いていた。ベルトコンベアーにのせられてくるジャガイモから、石や草などを取り除く作業だった。朝、地平線から日が昇ったら仕事を始め、日が沈めば終わるというものできつかった。ベルトコンベアーが故障したときは嬉しかった。修理の部品を大きな町まで買いに行くのに時間がかかったのでその間休めた。この仕事で1日40ドル以上稼ぐことができた。やがて1000ドルたまった。1ドルが360円の時代なので36万円。アメリカはすごいなと思った。お金がたまったので、兄の住むシアトルに帰った。

・ ヨーロッパからアジアを通って帰ったらどうかと考えた。マルセイユから神戸・横浜を1ヵ月に1往復する便が、食事付きで386ドルであった。旅行会社に相談に行くと、大西洋を渡るには、アイスランドの飛行機が163ドルで最も安いということがわかった。シアトルからニューヨークに行くにはカナダを横断するのが安く、バンクーバーからモントリオール間がカナダ太平洋鉄道で40カナダ・ドル。モントリオールからニューヨークまでバスで26ドル。トータルで620ドル30セント。1日8ドル使える計算になり、これで世界を巡ろうと決めた。

・ モントリオールには夜中の2時か3時に着いた。ホテルでフランス語(不肖フランス語科出身)を使って「小さい部屋はあるか?」と言ったら通じたので嬉しかった。海外で使ったはじめてのフランス語だった。

・ カナダとアメリカの国境を通過するとき、大きなリュックを持っていたので中身を全部調べ上げられた。アメリカは厳しいなと思ったが、アジア人がバスの最前列に座ったのが、白人のプライドを傷つけたのではないか、と後から悟った。


3)イギリス、フランスーグラスゴー、ロンドン、パリ、リヨンの町の体験を中心に
4)スエズ運河―航行体験を中心に
5)アジアーボンベイ、コロンボ、シンガポール、バンコク、マニラ、香港での体験


・ 飛行機はアイスランドの首都レイキャビクで一泊しなければならなかった。アイスランドなのに名前が「Saga(サガ)」というホテルがあって妙に感じたが、北欧で活躍したバイキングの武勇伝を、英語でsagaということがわかった。グリーンランドから来たという女性に会ったが、こちらは日本人ということでお互いに珍しかったので会話で盛り上がった。

・ 船ではスエズ運河を通った。当時(、)この運河を船で通ったという人は珍しいと思う。運河は船がやっと通れるくらいの幅で、対岸の人と呼び合えるくらいだった。しばらく進むと広い湖のようなところに出て、船はそこで留まる。そこから先は一方通行のため、5,6時間待って向こうからやってくる船をやりすごしてから動き出すというものであった。その後1967年、第三次中東戦争でスエズ運河が壊され、その後10年間通ることができなくなった。

6)旅の収穫
7)新聞社での経験


・ 世界は貧しい人でいっぱいであった。特にアジアの貧困については胸をうたれた。当時の日本も政治的、経済的に非常に貧弱に思った。アメリカには日本車も輸入されていたが、日本車はハリウッドの急坂を登れないのでとても悪い印象がもたれていた。

・ 今日も変わらないが、日本の政治は世界で主導的な役割を果たせないということがわかった。

・ 何故、新聞社に入ったか? シアトルの仏教会で東京の読売新聞社の記者に出会った。たまたま席が隣同士になったのだが、その人に「記者になりたかったらここを訪ねなさい」と連絡先を書いたメモをもらった。帰国後、外大の専攻科に入ったが、就職するという時期になって、その記者に電話をした。その人は自分を覚えていてくれて、大阪で行われる新聞社の試験を受けるように勧めてくれた。この出会いがあったおかげで新聞社に就職することになった。

・ 旅先で出会った人たちから、40年以上経った今でも、年賀状のやりとりがある。これは非常に嬉しい。


質疑応答・感想
小原さん(2期)
自分もインドネシアに仕事で行く日の朝、初めて衛星放送が始まったときの第一報がケネディ大統領暗殺のニュースだったのを覚えている。人生というのは出会いとふれ愛だと思っているが、今日の多田さんのお話を聴いて、その思いを強くした。

アルバム
旭光丸
浄土真宗本願寺派 シアトル別院
シアトルの4:45pm 秋。
シアトル スミスタワー
シアトル 交通事後現場
救急車で搬送される負傷者
トマト農家の日系人一家
トマト農場の日系一世
トマト農場の作業
モントリオール市街
モントリオール市街
ケベック州庁舎
ニューヨーク タイムズ・スクエア (正月)
ニューヨーク 地下鉄
ニューヨーク仏教会
アイスランド レイキャビク
英王室の専用車
バッキンガム宮殿
大英博物館の扉を開ける係員
フランス・ベルギー国境
フランスの子供
スエズ運河の対岸を臨む
帰国途上の船上で
バンコク市街
バンコクの案内人
シンガポール
マニラ港
香港の北端から中国を見る
ここから前には進めない
ロンドン・パディントン駅行きの切符
コメディ・フランセーズの入場券
ルーブル美術館の入場券
パリ地下鉄の切符







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