事務局より
第1回の雁鳴きフォーラム以来、5年ぶりにご登場いただいた田中健次さん。前回は、創部当時のご苦労をふくめ、ご自身の半生を詳しく、淡々とご紹介いただきました。今回は大胆な構想のもとにかねてよりご執筆中のナポレオンの生涯についてお話しいただきました。これまで知っているようで知らなかったナポレオンの内実について、画像を交えてくわしくご説明いただきました。ナポレオンと秀吉が夢枕で会話を交わすという、奇想天外な御著の上梓待ち遠しいところです。ご自身はじめてのパワーポイントへの果敢な挑戦。当日の各スライドの横にお話しの要点を付記しました。スライドと合わせてお読みください。
田中健次さん(1期)

「ナポレオンと秀吉と私」




私は、今、ナポレオン・ボナパルトについて本を書いている。
豊臣秀吉をからませて書いている。二人は、生年でいうと約230年の差がある。時代も国も違うが、ナポレオンについての本は世界中にごまんとあるなか、意外と彼の内面をえぐった本がない。秀吉がナポレオンの枕頭に立っていろいろと問答するという設定である。
今日は、ナポレオンという1人の男の雄大な人生について語る。
ボナパルトはコルシカ島の生まれ。コルシカは彼の生まれる1年前までイタリア・ジェノバの植民地。よって、ボナパルトは厳密にいうとイタリア人。これは彼を知るうえで重要。
ボナパルトの父は、貴族の名誉がほしがったがなれなかった。家は裕福ではなかった。フランスに帰順後、貴族代表に指名される。
兵学校で砲術を専攻。
王政の財政破たんがフランス革命のきっかけ。
「人権宣言」(正しくは、「人間と市民の権利に関する宣言」)が革命の理念となる。近隣諸国は、その波及を恐れ、フランスと衝突。革命戦争の始まり。
「人権宣言」の内容は、現在の世界の民主国家の憲法にはほとんど盛り込まれている。
フランス革命の影響の大きさがわかる。
「人権宣言」にいたる歴史的背景にも目をそそぐべきである。
ルソー「社会契約論」は、世界で最も読まれた3著のひとつ。ほかは、「聖書」と「資本論」といわれている。
革命後、イギリスが地中海沿岸のトウーロン港に艦隊を派遣。ボナパルトが砲兵として奪還に活躍。しばらくは冷や飯を食う。
テルミドールは王党派、ジャコバン党(左派)を抑え込むクーデタ。ボナパルトが活躍。総裁政府成立。
王党派が復活しようとしたヴァンデミエール事件鎮圧の功績で国内軍司令官に任命される。
ジョゼフィーヌ・ボアルネは元子爵夫人、一説にバラスの愛人。実際はジョゼフィーヌが6歳年上。
新婚間もなくイタリア遠征。
当時のフランス軍はだらしなく、兵力不足。
ボナパルトは、自国の非力を伝え、肥沃な北イタリアからの暗に略奪を認める、有名な演説を行う。
オーストリアとのロディの戦いで、弾雨の中でも弾に当たらない自身の強運から、自らが偉人であることを悟る。
アルコーレで乗馬もろとも橋から落下。馬のほうが敵弾で落命。
当時、戦争で生じた大量の捕虜をどうように処置したのか、文献記録がない。いまだ判らない。
ヴェネチアの戦いで得た賠償が面白い。金銭、軍艦のほか、名画が20点ある。今、ルーブル美術館にある名画のいくつかはこの時のものだろう。モナリザもそうではないだろうか。
パリに凱旋し、大歓迎される。通り名がヴィクトール街となる。
イタリアで戦っていた時、ボナパルトはジョゼフィーヌに連日のように来るようにレターを出すが、ジョゼフィーヌのほうはほとんど返事をよこさない。彼女はパリの社交界で浮名を流しているほうがよかった。やっとミラノに来るが、若い将軍の副官と一緒に来るありさま。
26-27歳の時のボナパルト
当時の大砲を描いた珍らしい画。13期の三浦あつ子さんに紹介いただいた、国立民俗歴史博物館の宇田川先生(当時)にお借りした、大砲について詳しい本のなかにあった。
イギリス遠征軍の指揮権を得て、ドーバー海峡を見に行くが、結局エジプトに遠征する。エジプトに行った理由がよくわからない。いろいろと説があるがいずれも説得力に欠ける。
エジプト遠征隊に200名の学者、文学者、美術家からなる研究団を加えたのが特徴。
エジプト遠征は、陸戦は順調であったが、海戦はイギリスのネルソンに完膚なきまでにやられ、増援はおろか、帰国もままならない状況。
エジプト遠征の成果なし。冬の装備で対戦。
ロゼッタストーンを得て、ファラオの歴史が明らかになるきっかけとなるが、なぜか現物は大英博物館にある。
ジョゼフィーヌの浮気が気になってエジプトを離れ帰国したという説もある。
総裁政府はあいかわらす無能で政局は悪化。頻繁な選挙が政局を不安定にすることになった。山岳派(左派)と王党派(復古派)の板挟みと汚職者の充満でどうにもこうにもいかなくなる。これを打開しようとした一派がボナパルトを擁立し、クーデターを計画する。
ボナパルトはサン・クルーへに着くが、人前での話が苦手なボナパルトは議員から罵声を浴び、「ねずみのようにふるえる。」彼の生涯で身の危険を感じたのはこの時一回だけという。この危機を末の弟のリュシアン・ボナパルト(五百人会の議長)が救う。
このクーデターでボナパルトは脇役に終るが、その収穫(おいしい所)はボナパルトが取ることになる。
臨時執政が交代で政府を主宰するということで3人選ばれるが、アルファベット順でいくとボナパルトのBが最初になり、優位となる。これも彼の強運の表れ。
イタリアがオーストリアの圧迫を受け、イタリアに遠征。5月のまだ雪が多い、大サン・ベルナール峠を越える。スライド11がその時の光景とされるが、実際はラバに乗った。ラバは忍耐強く、坂道に強い。この絵(スライド21)のように颯爽としたものではなかった。
ボナパルトはイギリスと神聖ローマ帝国に平和構築を呼びかけるが、これらの国はボナパルトを倒すことを企図。
ボナパルトは内政にいそしむ。内務大臣は弟のリュシアン、外務大臣はタレーラ、警察大臣はジョセフ・フーシェ(海千山千の男)、陸軍大臣はベルティア、財務大臣はゴーダン。
イギリスとようやく和平条約(アミアン条約)締結にこぎつける。イギリスの内政事情が幸いしたが、大きな問題は未解決のままであった。ヨーロッパに10年ぶりの平和が訪れた。
ボナパルトは執政の任期を10年と定める選挙の前倒し実施をもちかけられたが、国民投票による終身執政の道を選ぶ。結果は圧勝。
フランス革命の成果がすべて民法、『ナポレオン法典』に結実。『人権宣言』を法律に反映し、日本の明治民法のベースにもなった。
イギリスとのアミアン条約の破棄、王党派の活発化がボナパルトの強固な権力なもとに国家を安定させる君主制の導入となる。
ボナパルトは今のドイツの一部である、バイエルン、バーデン、ヴュルテンブルグなどからなるフランス衛星諸国をつくる。当時はまだ、「ドイツ」という呼称も国もなかった。
ボナパルトはイタリア共和国(シザルピン共和国あらため)の大統領となる。ここではじめて「イタリア」の名があらわれる。
新大陸では、イギリスに占領されていたフランス植民地がフランスに返還され、スペインが雨リアのルイジアナを譲渡する。ボナパルトはルイジアナの将来性を危惧し、アメリカに売却。アメリカにとっては幸運であった。
ヨーロッパでのフランスの勢力拡大が周辺諸国の脅威となり、英仏関係が悪化。イギリスは自国でフランス艦船を拿捕(イギリスによる外からの「大陸封鎖」)。
ボナパルトは終身執政であったが、王政を固めるため、元老院の決議により「フランス人」の皇帝、ナポレオン・ボナパルトとなる。
王政(皇帝)の可否ではなく、世襲制の可否を問う国民選挙で圧倒的多数で勝利。
ノートルダム寺院で戴冠式。
法王ピウス7世がやるべきところ、ナポレオン自らジョゼフィーヌに王冠をかぶせる。
皇帝になった翌年、二つの大きな戦争があった。一つは、スペイン大西洋沖でのトラファルガーの海戦(イギリス対フランス・スペイン)。ナポレオンはオーストリアに退却。
もう一つがモラヴィアのアウステルリッツでの戦い。フランス、オーストリア、ロシアの三帝の争い。ナポレオンはオーストリア・ロシア連合軍に大勝利をあげる。奇しくも戴冠式の一年後。
ナポレオンは、ウイーンのシエーンブルン宮殿で指揮をとる。彼の部屋が残るが、ベッドや椅子が小さい。記録によれば身長は160cmあったというが、実際はもっと小さかったのではないかと思う。
アウステルリッツの戦いの前夜。真ん中の白いパンツがナポレオン。
皇妃ジョゼフィーヌ。子どもができず離婚するが(ナポレオンとの結婚前に二人の子どもをもうけている)、ナポレオンは最後までジョゼフィーヌを愛しつづける。
常に戦争をしつづけるナポレオンであったが、自らに権威をもたせるためにヨーロッパの諸王家と婚姻関係を結ぶ。
今のドイツ方面にさらに衛星国を拡大。プロイセン・ロシアと争い勝利する。ロシアは余命を保つが、プロイセンは壊滅状態になる。
マリー=ルイーズ。ジョゼフィーヌと離婚し、再婚相手となったオーストリアの皇女。
ベルリンに入り、大陸封鎖の勅令を出す。しかし、イギリスの対大陸輸出比率は低く、大陸封鎖によってイギリスに対して期待するほどの打撃を与えることはできなかった。
ベルリンの後、ポーランドに行く。強国のあいだに挟まれ、常に苦境にあるポーランドは、ナポレオンに期待するが、ナポレオンはそれらの強国ともうまくやっていきたいから、ポーランドの救済を約束しなかった。
ポーランド滞在中に、美人でしとやかな貴族夫人、マリー・ヴァレフスカと出会う。彼女は23歳、伯爵の夫は70余歳。ナポレオンのほうから熱をあげ、彼女の周囲もけしかける。6か月ほど一緒に暮らし実子(おそらく)ができる。ジョゼフィーヌ(すでに2実子あり)との間に子どものできなかったナポレオンは、自身の生殖能力に自信をもつ。
テルジットの和平条約(ロシア、プロイセン、フランスの3国間)。ナポレオンとロシアのアレグザンドル1世は仲がよかった。条約はプロシアにとっては悲惨な内容であった。
この頃からナポレオンに勢いがなくなる。フランスはスペインを占領するが、戦闘は思うようにいかなかった。地形の問題か。列強に先駆けた国民皆兵制の導入により、兵力を集中し敵の正面突破を得意とした。兄のジョゼフをスペイン国王とする。
一方、イギリスがじわじわと攻勢に出る。ナポレオンはスペインの内政改革を行うが、一方、オーストリアとの戦争が始まり、ウイーンに入る。
ルイーズの間に子が生まれる。ナポレオン2世、フランソワ・シャルル・ジョゼフ(ローマ王の名をもらう)。
スペインの戦況は悪化。フランスのマッセナ将軍退却。イギリス軍スペイン入り。
ロシアが従順でなくロシア遠征を始める。フランス同盟国軍の兵力110万人のうち、50万人しか第一線に配置できなかった。その大半はフランスの外国県、同盟国出身者。かつてのフランス軍の面影はなかった。
フランスの連隊の古参兵は10分の1。大部隊を指揮する人材にも恵まれなかった。
ウージエーヌはジョゼフィーヌの連れ子。
フランス革命の理念によるロシアの農奴解放を喧伝するが、農奴には通ぜず。
ナポレオンは仲のよかったロシア皇帝アレグザンドルとの仲直りによる、早期停戦を期待するも実らず。
当時、ナポレオンの軍は「大陸軍」と呼ばれていた。
ロシア軍は一戦も交えず退却をつづける。家も食糧も燃やしながら退却。ナポレオン軍は食糧現地調達が原則。大規模軍の食糧(軍馬の干し草も)に事欠く。脱走と病気が重なり15万人の兵力を損失。馬8万頭も死亡。
スモレンスクを14万人の兵で囲むが戦闘なし。戦闘らしい戦闘がないので、フランス軍内に不調和が起こる。ミュラ軍(騎兵隊)の要請にジュノー将軍の軍が応じなかった。ナポレオンが許可しなかった。ナポレオンは処罰をしなかった。いろいろな病気にも悩まされ、決断にこれまでの切れ味がなくなった。
ロシアの老元帥クトウーゾフとモスクワの点前で会戦。中央突破し、追撃のチャンスがあったが、ナポレオンは増援要請を拒否し、追撃できずに終わる。ロシアの死傷者52,000人、フランスは28,000人。
モスクワ入城を果たすが、ロシア皇帝アレグザンドル一世は交渉の席にあらわれず。入城の日に、モスクワは大火災。これにはモスクワの提督の陰謀(解放した囚人に放火させた)という説がある。
ナポレオンは5週間、皇帝の登場を待ち、モスクワに留まる。退却開始。帰途、コサック兵、農民の攻撃を受ける。ナポレオンはごく少数の取り巻きを引き連れバリに帰着。
一方、イギリスがスペインの足場を固める。
パリに帰り、軍の再編に取り掛かり、兵力をかき集めるが、武器を含め質は低下。
プロシア軍とオーストリア軍がナポレオンの大陸軍を離脱。ロシア軍がポーランドを占領。
すでにナポレオン軍は兵力が各地に分散し、思うような戦果があがらなくなった。彼が原則とする兵力の集中を忘れてしまった。
プロシアとロシアが同盟を結び、プロシアはフランスに宣戦布告。オーストリアも宣戦布告。これまでの恨みを晴らさんとばかりに、よってたかって宣戦布告。
ライプチッヒの戦闘(諸国民が束になってフランスに戦いを挑む)でナポレオン敗れる。決定的な敗北となる。
連合軍がバリに入り、ナポレオンはフォンティーヌブロー(パリでの普段の滞在場所)で退位。当初はいろいろな条件を付けたが、連合軍は相手にせず無条件で退位。地中海エルバ島にわたる(エルバ島はナポレオンに統治をまかす)。ナポレオンの占領していた諸地域の戦後処理を決めるため、ウイーン会議を開催するが諸国は勝手なことを言ってばかりでまとまらず。パーティで踊ってばかりいたので「会議は踊る」。
フォンティーヌブローを後にするナポレオン。
失地回復のため1年足らずのうちにエルバ島脱出、フランスに帰り。フランス世論をなだめるため、平和の志向を同盟国側に伝えるが通用しなかった。同盟国側はナポレオンのヨーロッパからの追放を宣言。
ワーテルローでフランスと同盟国軍が対決。
ワーテルローは英仏トンネルのフランス側に近い。トンネルのイギリス側にウオータールー(イギリス読みのワーテルロー)駅がある。フランス人にとっては屈辱的な命名。
ナポレオンは再度退位。本人は観念し、自らイギリスに投降。宿敵イギリスに身を委ねる。ナポレオンにイギリスは紳士の国という意識があったのだろうか。イギリスは紳士の国である一方、海賊の国でもある。後者のイギリスが出てセント・ヘレナに流される。セント・ヘレナは小さな気候条件の悪い小さな島。監視役は、一筋縄でいかない、おかしな男であった。
セント・ヘレナで5年6か月虜囚生活を送り亡くなる。決して幸せではなかったが、結果的に彼の栄光を高めることになった。大勢の人が彼に会いに来て、聞き取った内容が世に出る。嘘と誇張の伝記が出てよく売れる。よって、彼の伝説は半分以上、自分自身が作ったようなものだと思う。
私の著作では、ナポレオンの枕頭に秀吉が立ち、秀吉の問いかけにナポレオンの内心を語らせる仕組みとなっている。
秀吉とナポレオンの時代環境の相違に何かが出てくる。そこが面白い。
ナポレオンについては資料が多すぎる。在パリの2期の浦田君に珍しい資料を集めてもらったことがある。読んでいない資料もある。









以 上









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