事務局より

現在は、定年より2年早く退職、教職を離れて5年の林さん。
念願の英語教師に成りたての頃は、生徒も慕ってくれてとても楽しかったけれども、教職という仕事は、だんだん時代とともに非常にきびしいものとなってしまった。前話者の和田会長から、雁鳴きフォーラムでの話し手の依頼がきた時、教育現場の話をするにはあまりにも生々しすぎて、できないと思われたそう。ところが会長の「林さん、GIVE & TAKEやで。TAKEしたらGIVEしなあかんで」という言葉に説得され、話し手のバトンを受けましたとのことです。

---------------------------------------------------------------------------------------------

林 徳子さん(7期)
「私が先生だった時」




1. 年譜 

1968年卒業
’68—’72 兵庫県立 洲本実業高校東浦分校に赴任
’72—’76  〃   明石南高校 
’76—’85  〃   星陵高校
’85―’90  〃   神戸高校
’90―’01  〃   北須磨高校
’01―’04  〃   三木北高校(退職)

・ 東浦分校は、教師の平均年齢が28才という学校であった。天気のよい日は外に出て、
「The sun is shining」と教えて、それ以上難しい英語は使わず、あとは歌を歌っていたこともあった。生徒も慕ってくれ、二十四の瞳に出てくるような大石先生のような思いをさせてもらった。4年間いた間に、結婚、出産も経験。若さで乗り切ったというかんじ。先生らしい先生になったというのは、次の赴任先、明石南高校から。
・ 教師生活の後半は、会議はトップダウンで決まってしまうという状況。退職する前は、いわゆる「生徒指導」のために職員会議が長かった。これはいわゆる成績のレベルに関係なくどこの学校も同じであった。



2. 社会状況と文部省学習指導要領

‘60年代 戦後の高校三原則のなごり(統合性、男女共学、小学区制)と民主主義の行動原則が高校には残っていた。

このころは生徒も元気だった。例えば学祭でも生徒が主体で行っていたし、たとえ、「たばこ、ビール」の問題があったとしても、生徒と教師間でそれはお互いに踏み込まない領域であった。

‘70年代 安保闘争の影響で高校でも学園紛争があったりして、教材の選択、購入に変化があった。

‘80年代 国際化が言われ始め、貿易黒字を減らすためもあって、ALT (後にAET)が学校現場に配置された。育児休業も実現した。

‘90年代 組合が弱体化して、文部省―各自治体教育委員会―学校管理職という
Top―Downが定着して戦前風になっていった。
組合が弱体化したころから、生徒も元気がなくなっていった気がする。

2000年代以降 雇用形態が変化して卒業生に進路を聞くと『フリーターです』と答える生徒がいたりする。学歴=生きる力ではなくなってきている。
しかし、消費は美徳などという陽気だが無責任の時代が終わって、つつましいが堅実な社会に向かうのではないか。

※文部省学習指導要領は常に迷惑な存在であった。
・ たてまえと現実に折り合いをつけようとすると、不足する時間数は教師の努力と生徒へのしわ寄せ、ということになる。生徒はしらける、先生は慌てるということになり、もっと自由であっても良いのではないかと思っていた。

例)*必修クラブ、 *ゆとりの時間、 *総合的な学習の時間
*文法は不要でコミュニケーションこそ重要である
下図(付1)参考

※教師生活では大変なことが多かったが、いい思い出もたくさんある。
・ 東浦分校では、生徒とキャンプをした。修学旅行でギターを持ってきた生徒がいた。その生徒は就寝時間まで歌を歌っていて、「翼を下さい」「戦争を知らない子供たち」などの歌を教えてもらった。今では、そのようなことは制約がありすぎて考えられない。




3. 担任として
・ 不登校といじめ
自分の担任するクラスに、いじめ、不登校の問題が1人出てくると、その1人分が他の40人全員分くらいの重さに感じる。
顧問をしていた吹奏楽部の生徒でも、恐喝をされるいじめがあった。いじめられっ子は、いわゆる、できない、体の小さい子。いじめっ子は、とりまきの子も連れていて、いじめは遊び感覚でやっていた。最初は期末テストの成績で、いじめっ子がいじめられっ子より全科目成績が良かったら、いじめられっ子がいじめっ子に1000円払う、一科目でもいじめられっ子がいじめっ子に勝ったら、いじめっ子がいじめられっ子に1000円払うというものだった。もちろんいじめられっ子は全部負けたのだが、冗談だと思って放っておいたら、夏休み後に利子がついて7万円を請求された。いじめっ子はそれを払わせるために、パシリの子に教科書をもってこさせてカッターナイフでグチャグチャに切ったり、のりで椅子をべたべたにして座れなくしたり、屋上で蹴ったりということをした。
終いにドライバーを渡して自販機からお金を取れというところまできて、担任である自分にいじめられっ子が訴えてきた。それは犯罪だということで、警察に被害届も出してほしいし、職員会議でもいじめっ子を退学させるべきだと怒った。ところが、いじめっ子が両親と一緒に、いじめられっ子の家で土下座して誤ったので、いじめられっ子が許してしまい(私は許すなと思った)、退学にもならなかった。強い方が弱い方をいじめるなんて許容できなかったので、そのいじめっ子を退学させないのであれば、私が辞めると言った。その時点では留められたが、フライングで2年早く退職したというのはそういう理由だった。

いじめはあちこちで多いが、子供は、幼稚園児でも物事の善し悪しはわかっているものである。最善の解決方法は、いじめられっ子が周りの人に、いじめのことを言う勇気。もし、皆さんの周りにいじめられっ子がいたら、放っておかないこと。余裕があれば転校するなども必要。

不登校は、偏差値が高い学校ほど多い。教師になってから、精神病の本をたくさん読んだ。
その中で、人間は誰もが次(下記)の4つの気質にあてはまると書いてあったものがあり、非常に納得した経験がある。

*分裂気質(頭が良いこととリンクしている。大雑把)
*そううつ気質(しょげるのが一番、というタイプ)
*ヒステリー気質(「そんなんやったら辞める」というタイプ。福田首相のような?!)
*てんかん気質(こだわるタイプ。自民党党首候補の石破さん?!)

分裂を発病した人で一年経っても学校に戻らず、その後10年経っても病院にいるという人もいた。

・ ”How high is the pregnancy rate in your school?”とアメリカから視察に来た先生に聞かれて驚いたことがある。これを聞かれたのは、教師をはじめて間もない頃だったので「え?」というかんじだったが、だんだんと「高校生は大人です」という時代になった。
教師生活のはじめの頃は、若くして子供ができてしまった生徒二人がボロボロのアパートで暮らしているというような、初々しい話もあった。ただ、終わりの方はそんなことはなく、先生が感知する枠ではないかんじであった。明らかに援助交際している子がいる等、教師になった頃には思いもしなかったことが、普通によく起こった。

-それでもやはり生徒の喜ぶ顔を見るのは『教師冥利』
48歳になった教え子達が、この3月に同窓会を開いてくれた。二十四の瞳やGoodbye, Mr. Chipsのような世界。(映画と違って、教え子が戦争で亡くなるということはないけれども、リストラであるとか、格差社会の問題が聞かれた)


4. 英語を教えて
・言葉は異なる文化への扉を開く鍵で大学の入り口を通るチケットではない
生徒には、言葉は異なる文化への扉を開く鍵だよと理想を言い続けてきた。だが、現実は生徒の偏差値を上げることが教師の仕事であった。0時間目(朝の7時半)から7時間目まで教壇に立っていた。

・文法は本当に不要なのか?
80年代から国際化ということで、ALTが各校一人配置され、コミュニケーションの時間が作られたので、文法の時間が少なくなった。
ALTは20歳そこそこの若い教師で、コミュニケーション重視で文法を教えることに批判的だった。ただやはり、生徒の作文の言い回しを正すことはできても、具体的に文法の間違いを指摘することはできない。授業中に日本語を使うな、文法を教えるなといわれても、それは違うなと思っていた。五文型は必要だと思っている。

5.クラブ活動の顧問として
・ 新聞部は年々生徒が減った。毎年同じものを作り、最後には先生が紙面を作るというかんじ。
・ ESS部はJSSと呼ばれていた。ALTのお兄ちゃんが格好いいと生徒が増えるという具合。
・ 神戸高校の吹奏楽部は全国大会に出るような学校。顧問になるまで音楽は全然知らなかったのだが、長い時間練習するので、野球部と同様、子育てが落ち着いたような割と暇な先生が顧問になった。7月から11月まで一日も休みがなく、ずっと生徒と寄り添っていた。家では紺屋の白袴になっていて我が子の通知簿を2学期が終わってから見たくらい。生徒は自腹で外部のコーチに謝礼を払っていたが、あまりにも一生懸命やっているのでコーチ代くらい学校が出してくれないかなあと思うほどだった。
・ソフトテニス部も生徒は一生懸命やっていた。
今はクラブ活動も、吹奏楽部と運動部は盛んだが、その他の部はコーラス部ですら下火。


6.その他

・人権教育について
同和授業は私が高校生のときは無かった。人権教育はトップダウンで決まったことなので、やらなければならなかったが、なぜか学校の教室で行うと生徒はしらけるし、先生は焦るし(自分が人権教育を受けた経験がないせいもあるかもしれないが)で、建前に終始したという、苦い思いをした授業だった。

・ 留学について
留学を旅行会社が扱うようになり、外国で取った単位が日本の学校で認められるようになってから、はじめの頃は好奇心が旺盛な子が留学していたのが、だんだん、ここではだめだから外国で一発逆転という感じの子が留学するようになった。

・ これからの社会
卒業生に出会ったら「フリーターです」と答えた人がいた。今、学歴が「生きる力」ではなくなってきている気がしている。成熟した社会であれば、普通の人が普通に幸せになれる社会にならなければならないのでは、と思う。
長野に家があって、一年のうち半分はそこで暮らしている。近所では自分が一番若手だがとても農業する体力はない。たとえば会社組織で農業をするとか、農作物を作らなくて補助金が出るという社会ではなく、若い人たちが日本の食糧を作り工業品を作るという、普通の人が幸せになれる社会にできないのかなと思う。外大に育ててもらって、国際化、グローバル化はとても良いものに思っていたが、自分の生活というものがしっかりしていなければ、どこの国にいっても尊敬してもらえないと思う。
国際化が叫ばれた時代、高校では世界史が必修、日本史が選択になったが、それは絶対におかしいと思う。自分の国のことを知らない人が、よその国で尊敬してもらえるだろうか。国際化といっても、自分の国や生活基盤がしっかりしていてこそだと思う。
今、日本で空洞になっている農業などの分野で、さまよっている若い人達に活躍してほしい。











inserted by FC2 system