事務局より
奥田さんは現在、清荒神にある鉄斎美術館で主任学芸員をされています。これまで30年以上、富岡鉄斎に深くかかわってこられました。鉄斎は「万巻の書を読み、万里の路を行く」という生き方を実践した人だそうです。今回はワンゲルの皆さんにお話するということで、そんな鉄斎にとって「旅」とはどういうものだったか、その生き方を通して我々が学ぶべきものは何かをお話いただきました。

奥田 素子さん(9期)

「富岡鉄斎の歩いた万里の路」



レジュメ

富岡鉄斎(1836~1924)は最後の文人といわれ、独自の画風を確立した画家です。天保7年京都に生まれ、大正13年89歳で亡くなるまでに、1万点を超える作品を遺しました。しかし自身はあくまでも儒者、学者としての姿勢を貫き、職業画家と見られることをきらいました。そして万巻の書を読み、万里の路を行くという文人が理想とする生き方を実践しました。そうした鉄斎の「万里の路を行く」即ちその「旅」とは鉄斎にとってどういうものだったのかを紹介したいと思います。
鉄斎の旅は24歳の頃、越前・若狭・丹後方面に約半年旅行したことに始まります。そして晩年まで日本各地を巡りました。その旅は単に物見遊山のものではなく、歴史上の古跡や墳墓を調査し、或いは風俗を調べ、地理の調査などという目的がありました。こうした旅で見た山河や勝景の感動は心中深く刻まれ、それは胸中の丘壑として多くの名作を生みました。


・鉄斎の旅から生まれた代表的な作品
  《高千穂峰図》 明治5年(1872) 37歳 掛幅 
   《那智瀑布図》 40歳代 掛幅
   《筑波山真景図》 40歳代 掛幅
   《蝦夷人図》明治25年(1892) 57歳 六曲屏風一双
   《鳩峰・五瀬・春日三景図》 50歳代 三幅対
     鳩峰は石清水八幡宮、五瀬は伊勢神宮、春日は春日大社
   《月ヶ瀬図巻》 50歳代 巻子
   《耶馬溪真景図巻》 50歳代 巻子 
   《名所十二渓図》 明治37年(1904) 69歳 六曲屏風一双
     磤馭盧島(おのころじま)・霧島・耶馬溪・月ヶ瀬・吉野山・瀞峡・更科・富士山・妙義山・
     華厳の滝・松島・蝋燭岩
   《富士山図》 明治31年(1898) 63歳 六曲屏風一双
   《富士遠望図・寒霞渓図》 明治38年(1905) 70歳 六曲屏風一双
   《妙義山図・瀞八丁図》 明治39年(1906) 71歳 六曲屏風一双
   《華之世界図》 大正3年(1914) 79歳 掛幅
  《日本絵図》 明治9年(1876) 41歳 掛幅 
      この作品を描いたとき鉄斎はすでに九州から北海道まで
      全国の名勝旧跡を旅していた。


解説
  (←ctrlを押しながら図をクリックして読む)


・ 京都の人にとっては、鉄斎はなじみ深い。八つ橋、柚餅、とらやなどお菓子屋さんの包装紙や看板によく使われている。

・ 鉄斎は、絵はほとんど独学。当時、書画は文人のたしなみとして当然のことであり、鉄斎はあらゆる流派の画家の作品を模写している。誰かに師事したわけでもないので画風も自由奔放であり、独特の展開。

・ 鉄斎は京都の三条の法衣商の次男として生まれる。耳が不自由であったため、商人には不向きとされ、学問を重んじる家であったことから学問の道をすすむようになった。時代が維新の前夜であり、京都という土地がら、周囲の人から尊王思想の影響も強く受けたが、耳が不自由だったということもあり、ほかの人たちのようには深く活動しなかったので、渦中にまきこまれなかった。この頃に描いている絵は、文人としての絵であり、画家になるとは本人は思っていなかった。

・ 鉄斎は晩成型であった。89歳まで長生きした。坂本龍馬と同じ時代の人であったが、鉄斎がもし龍馬と同じように短い生涯だったら、たぶん何も残らなかっただろう。

・ 「万巻の書を読み、万里の路を行く」という文人の理想の生き方を実践するべく、24歳の頃から鉄斎は各地を旅している。鉄斎にとって、旅の目的は開拓や歴史を調査することで、特に天皇家にかかわること、神話の世界を好んだ。例えば、磤馭盧島(おのころじま)も行っている。高千穂峰に登り、天の逆鉾を実際に確認している。

・ 39歳で北海道を旅行している。その目的は、土地の開拓を念頭においたものであった。松浦武四郎の影響を受けている。

・ 40歳で富士登山をしている。鉄斎が尊敬する文人の池大雅が、富士山に何度も登っているので大雅の描く富士山は素晴らしいと書いている。

・ 普通の画家であれば、たとえば富士山に登ったら、すぐ富士山を描くと思うが、鉄斎は画家ではなく学者であったので、鉄斎が旅で見たものはすぐに形となって現れるのではなく、胸中深くに取り込まれ、それが後に絵となって現れた。

・ 鉄斎の特徴のひとつは、神官になったということ。41歳から46歳の頃は、堺の大鳥神社などで宮司をしている。宮司をしていた時も、吉野に出かけて小学校の教育状況の調査をしたり、御陵の調査を積極的にしている。荒廃した神社の復興に資金が要るため、絵をたくさん描いている。鉄斎の前半生はこのようであった。

・ 46歳で京都に戻ってきてしばらくは、神社復興のための資金弁済のために絵を描くことに追われていた。この時期の絵は、名作もあるが、割と簡単に描いたものが多い。

・ 50歳代から、絵で身を立てるために絵の勉強をしなおす。そうすると旅行の目的が変わってくる。今までのように御陵の調査などではなく、学者として、また画家としての好奇心を満たす旅行になってきた。例えば、神社仏閣に行けば什宝、古書画を見せてもらう、歴史的な人物のお墓を訪れて修復する、伊勢物語など文学にちなむ場所を旅行するなど。鉄斎は40歳までに日本各地をほとんど訪れているが、50歳を過ぎてからは、旅行の目的を細かくもって、どんどん吸収しようとしていることがわかる。

・ 資料参照《名所十二渓図》明治37年(1904)69歳時の作品 
(↑拡大して見るには画像をクリック) 
磤馭盧島(おのころじま) (42歳のとき訪問。以下同様)
霧島(37歳)
耶馬溪(50歳代)
月ヶ瀬(何度も訪れている。鉄斎の尊敬する頼山陽が好んだ場所なので)
吉野山(40歳のときから何度も)
瀞峡(54歳)
更科(68歳)
富士山(40歳)
妙義山(68歳)
華厳の滝(68歳)
松島(68歳)
蝋燭岩(北海道。39歳)
ワンゲルで我々が行った旅とは違い、鉄斎の場合、風景を楽しむということは二の次。   
開拓、歴史的調査をし、道中で見た景色が胸の中におち、万巻の書を読んで得た学問が合わさって鉄斎の芸術が出来上がる。この作品が一番それを端的に表している。

・ 例えば、不尽山(ふじさん)の絵は、絶頂図と全景図がある。(『清荒神コレクション富岡鉄斎名作百撰』便利堂 参照)このような力強い絵を描くことができたのは、実際にそこに足を運んだという経験があって初めてできることだと思う。東京の博物館で「対決―巨匠たちの日本美術」という展覧会があり、鉄斎の富士山図と横山大観の富士山図が並べられたが、好き嫌いは別として、我々に力を与えてくれるのは鉄斎だと思った。それは、鉄斎の絵には、実際に自分の足で歩いたことで得たものがあるからだと思う。

・ 鉄斎の場合、実際旅をして見た景色がすぐ絵になるのではなく、その感動は胸中に深く取り入れられ、心象風景となって描かれる。実際、大きな旅行をしたのは70歳くらいが最後である。それから89歳で一生を終えるまで絵を描き続ける。学問に対する情熱、好奇心、欲しいと思ったら絶対に欲しいと思う所有欲、探究心は衰えることがなかった。特に好奇心が一番強かった。我々が見習うべきは、鉄斎のそういったところだろう。

・ 高野山、車折神社、東寺の門前、住吉大社など色んなところで、鉄斎が奉納した地蔵、墓碑、燈篭、社名石が見られる。鉄斎の旅は、ただ歩き回ったというわけではなく、信仰心も厚く、目的もあり、それが後に心象図となって作品に表れた。

・ 神官をしていた頃は、家族を伴って堺で暮らしている。鉄斎は奥さんを非常に大事にした。留守中は奥さん宛に、たくさんの手紙を書いて気遣っている。当時としては珍しかっただろう。

・ 息子の謙蔵には、優秀な先生をつけて勉強をさせている。例えば、英語の先生には内村鑑三。そういうところに鉄斎の懐の深さをかんじる。その謙蔵は46歳でがんで亡くなる。普通、息子が早くに亡くなると気力も衰えると思うが、鉄斎はそれをエネルギーにしてまた晩年の人生に華を咲かせている。それはそれまでの学問、経験の蓄積のおかげだろうか。そのエネルギーを真似するのは大変だけれども、鉄斎の生き方の根本になっている好奇心は、学ぶべきであろう。

・ 美術館では、たくさんの所蔵品があり、色々な企画を組んで展示している。鉄斎は、自分の絵に無意味なものは描いていないと言い切っている。学問のない人が描いたものは値打ちが無いとまで豪語しているほど。ぜひ、清荒神まで足を運んで、鉄斎の実物の絵を目で見て楽しんでください。



質問
田中健次さんより:
Q. 奥田さんご自身はどんなお仕事をされていますか?
A. 今は鉄斎美術館の主任学芸員をしている。たくさんある所蔵品を、色々な企画を考えて、展覧会にするのが仕事。所蔵品として、絵画、書、粉本(模写)、書簡、器玩の他に、万巻の書、覚え書き、すずり、筆などたくさんある。鉄斎は、本に書き込みをたくさん残したが、本だけでなく、座布団、かばん、筆にいたるまで、色々なものに描く「描き魔」であった。そういったもの全て数えると、二千点くらいある。

Q. 鉄斎は日頃の生活はどのようにしていたのか。経済的にどのようにまかなっていたのか。長生きをしたようだが、どんな生活をしていたのか。
A. 神社仏閣の復興に資産を投じて、50代は、青年時代よりは多少の貧乏はしていたが、元々、商家の家に育っているので食べるのに困るほどの貧乏ではなかった。絵を売って生きるというのは、鉄斎にとって本意ではなかったが、学問だけで身を立てるのは無理なので、50歳頃から絵を勉強し直している。鉄斎の絵は、70~80歳になって需要が高まった。絹本着色の作品は家が一軒建つくらいだったという。
京都の絵描きで橋本関雪などは、別荘を買ったりしていたが、鉄斎はそういったことはせず、本を買った。鉄斎は息子が中国へ行く資金などは惜しみなく出している。ちなみに鉄斎自身は中国へ行ったことはない。室町一条の家は最晩年に建てたもの。そういう清廉な生き方も、人気のひとつだと思う。

中塚博巳さん:
Q. 質問ではないけれどもご参考として。自身も住まいが京都の三条であるが、京都では、お店の看板で鉄斎はよく見かける。奥田さんのお父さんは、奥田仁さんという画家。奥田さんご自身、お父さんの絵や、ペルシャの壷などを観て育っておられる。
A. 自分がこの仕事についたのは父の影響はあるとは思いますが、分野が違うけれども鉄斎の特殊性によって、いろいろ話をすることができたので、恵まれた環境であったと思う。京都に行けば、お菓子屋、筆屋、墨屋の看板で鉄斎の作品が、神社に行けば鉄斎ゆかりの社名石など、生活の中であちこちに見られるので、ぜひ楽しんで欲しい。
来年、鉄斎美術館は創立35周年を迎えます。来年(2010年)の3月から鉄斎の大作を集めた展示をします。大作が一同に見られる機会は珍しいので、ぜひお越しください。
清荒神清澄寺のホームページ(http://www.kiyoshikojin.or.jp/museum/)を見ていただくと展覧会の情報が出ています。









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